清潔でお洒落。「こざっぱり」の美意識

江戸っ子は、毎日のように銭湯に行き。月代を剃って髪を結い、季節の変わり目には着物を買った。

彼らは「小ざっぱりしたものを着る」ということにこだわった。その対極である、小汚い、煮締めたように汚れた着物は野暮の極みだった。といって、そうそう頻繁に洗濯ができるわけではない。まして、一度縫い糸を解いて水洗いし、板にピンと張って乾かして、再度縫いなおす「洗い張り」などは、独身者ではなかなか手がまわらない。

そこで、便利に使われたのが古着屋である。彼らは、ある程度着ると、汚れが目立ちすぎないうちにこれを古着屋に売った。ついでに、そこで新しい(古着だけれど)着物に替えた。その差額には、古着屋の洗濯代も含まれている……というわけ。このサイクルを、普通は盆暮れの年に二度、最低でも年に一度は大晦日行うのが、貧乏であっても江戸っ子の心意気であった。歳の暮れまでは着古したボロボロの着物で働き、除夜の鐘を合図に新しい着物に着替える「暮れ襤褸」などという言葉からは、そうした美意識を窺うことができる。士農工商のてっぺんに立つ武士でさえ、着物を新調することなど、滅多にできるものではなかったから、江戸の独身者たちは、貧乏なくせに、ナカナカ贅沢なシングルライフをおくっていたのである。

また、男たちがこだわった持ち物に、財布や煙草入れなどの「提げ物」と呼ばれる携帯入れ物があった。革や高価な織物など素材を吟味し、柄やデザインには、自分の干支や生まれ月、季節にちなんだ意匠などを用いた。

ことに、提げ物を携帯する際、帯から落ちないように留める役割をはたす一種のストラップ「根付」には、持主のこだわりが存分に発揮された。掌におさまるほどの大きさに過ぎない根付に、十二支すべての動物や、大仏を掃除する20人もの人が彫り込まれていたりする。通常こうした贅沢な持ち物は金持ちの特権であったが、ちょっと小金を手に入れた独身者が手を出すことも多々あったようだ。

古着屋でお洒落な服を物色し、フィギュアや推しのグッズを買う現代の独身者に、どこか相通じるものがある。

1800年代に作られた象牙のネズミの根付
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外食・中食も充実

江戸の独り者は食事のほとんどを外食に頼っていた。燃料費を考えれば、自炊より余程効率的だ。

幕府開闢当初は流石に少なかったという江戸の食べ物屋も、およそ50年を経た明暦以降は増え続け、幕末には店構えの蕎麦屋だけで3700軒を超えていたという。安政年間(1855~1860)に和歌山の医師が書いた『江戸自慢』には「いかなる端々にても、膳めし、蕎麦屋、しるこ餅、腰掛茶屋のなき所はなし」などとあるから、江戸も中期を過ぎた頃には、外食をするに全く不自由はなかったはずである。

外で買ってきたものを家で食べる、現代のいわゆる「中食産業」までも存在していた。あまつさえ江戸の中食産業は、家まで売りに来てくれた。納豆、豆腐、金時豆、稲荷寿司、ゆで卵、ところ天、舐め味噌や金平牛蒡などの惣菜まで、ありとあらゆる食べ物を売り歩く商いがあったのである。まさに、都会の独身者を対象とした「出張するコンビニ」で、Uber Eatsのはしりといってもよろしかろう。むしろ現代人のほうが、出遅れている。

江戸文化・風俗の研究家の三田村鳶魚によれば、江戸っ子すなわち鳶・大工・左官・棒手振・駕籠舁などといった人々は身軽でなければ務まらないから、小食にして度々食事を摂る傾向があったという。大食いは田舎風と嫌われた(「江戸ッ子の食好み」)。いきおい彼らは美食を好み、金離れも良かった。これも、家庭があって、子供を養おうと思えば、控えねばならないことである。

人恋しくなったら……

人恋しくなったら、擬似家庭に相当する公娼制度や私娼窟があった。

昔、吉原などの遊郭という場所は、単に性的な欲求を満たすためだけでなく、生涯独身で過ごす男たちが、擬似的な「家庭の味」を楽しむ場という側面を備えていた。

わずか四畳半ほどの遊女の部屋に、台所や風呂までも拵えた店もあったとか。ニュアンスとしては、五、六人の男性で一人の妻を養っているような感じである。落語の『五人廻し』は、この五人の男が一斉に来てしまうというスラップスティックな可笑しさを描いたもので、反面、とてもリアルな噺だったのである

お女郎さんの部屋で出される「家庭の味」は、シンプルなレシピで、極力火も使わず、後片付けも簡単なものばかり。ことに、一晩泊った朝ごはんに、花魁が気の利いたオカズを作ってくれるのがイロオトコなのだ。

たとえば、こんなものが出されたという。

・生姜飯 醤油で味をつけたおろし生姜を、炊き立てのご飯に混ぜたもの。
・竹虎 炙った油揚げに、刻み葱をのせて醤油をジュッとかける。
・浦里 梅干しの種をとって裏漉しし、大根おろしともみ海苔を和える。好みで醤油を。

これらのオカズに、遣り手の婆さんの生卵がつけば、それは大モテの証。結婚なんかしなくても、幸せはそこにあったのだ。

生卵
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なぜ「結婚して当たり前」が蔓延したのか

彼らは、こうした境遇を、別段不幸とも思わなかっただろう。手に職さえあれば、貧乏でも、こんな暮らしが営めるのだ。

やがて病にでも罹って働けなくなれば、「大家といえば親も同然」などと近所が面倒を見てくれる。それに、お医者になぞ掛かれないから、寝付いたらほどなくぽとり、と死ぬ。近所の人も、ひと月くらいは面倒をみてくれるかもしれないが、半年一年はそりゃ無理だ。調度良い、のである。だから「宵越しの銭」など、持たなくて良かった。それが、粋でいなせな江戸っ子のひとつの類型になったのである。

こうした人が、無理に家庭を持つと、たちまち生活のバランスは崩れてしまう。家庭を持たずにスマートに生きることが、彼らにとっては「自然」だったのである。

何故、こうした庶民の生き方がイレギュラーなものとされ、結婚して一家を構えることが「普通」だという常識が蔓延したのか?

それは明治政府の策謀である。明治維新というと、「士農工商の身分の枷を取り払った」という清新なイメージがあるかもしれないが、その実は、「一家を構える」という武家のしきたりを国民全員にすすめる態で、徴兵制度を押しつけ、また国民全員から税金が徴収できるようにと目論んだのである。

江戸時代、江戸の街に住む独り者の職人は無税だった。いくら身分制度から解放されたといっても、貧乏のうえに税金を課されたり、兵隊にとられて戦場で殺されたりしてはタマラナイ。

髙山 宗東(たかやま・むねはる)
近世史研究家、有職故実家

歴史考証家、ワインコラムニスト、イラストレーター、有職点前(中世風茶礼)家元。不肖庵 髙山式部源宗東。1973年、群馬県生まれ。東京大学先端科学技術研究センター協力研究員、大阪市ワインミュージアム顧問、昭和女子大学非常勤講師(日本服飾史)などを務める。専門は江戸時代における戦国大名家関係者の事跡研究、葡萄酒伝来史、有職故実、系譜、江戸文芸、食文化、妖怪。