都市の女性独身者
また江戸の町には、女性の独身者も意外に多かった。
2022年の統計によれば、日本の離婚件数は17万9096件で、婚姻件数に対する離婚件数の割合は約35.5%。これに対し江戸時代の離婚率は4%ほどだが、特に武士階級に限っていえば10%に達していたともいわれる。
こうした背景のみではないが、都市には独りで生きている「自立した女性」が多くいた。武家や商家に奉公にあがり、仕事をしながら生涯を終えるのである。
「紺の前垂れ松葉に染めて まつにこんとは気にかかる」という都々逸は、そうした独身女性の心を唄っている。おそらく商家に奉公しているのだろう、貸本屋か小間物屋か、10日に一遍くらいまわってくる行商人と、ちょっといい仲になった。ところが、ここのところしばらく顔を見せない。「私のことが嫌いになったのかしら……いや、違う。新しくした前掛けの柄が、紺地に松葉の柄だ。ひょっとするとこれが、『まつにこん(待っているのに来ない)』という呪いにでもなったんじゃあないかしら」。
このような働く独身女性のエリートが、大名・旗本、あるいは大奥に仕えた「御殿女中」である。彼女たちの中には、奉公を退いた後に「一家」を立てた女性もあった。自らの財産を基盤として養子をとり、自分は家の創始者(祖先)となったのである。
色里には、遊女としてつとめた後、コンシェルジュとでもいうべきか遣り手婆となる女性もあった。遊郭の縁の下で鶏を飼い、間夫に翌朝のもてなしをする花魁に卵を売って小遣いを稼いだりしていたという。
裏長屋に住む
栗原柳庵の『文政年間漫録』によれば、文政(1818~1831)当時の大工の日当はおよそ銀五匁だったという。銭に換算すると五百四十文ほどで、「楽ではない」ものの、極貧というわけではなかった。だから彼らは、案外に生活を楽しんでいた。
住むのは「裏長屋」だ。江戸の町屋は、大きく「表店」と「裏店」に分けられる。表店は表通りに面した家作。ここには、有力な商人が住んでいた。これに対して裏店は、表店の裏に路地を切って配置されている区画で、そこに並ぶ賃貸物件が裏長屋である。路地から庭へ吹き抜けた「割長屋」や、並んだ部屋同士が背中合わせに双方の路地を向く「棟割長屋」があった。
割長屋は、路地から庭(というほどのものではないが……)へと吹き抜けた形式。風が通るので、夏場は多少涼しい。住人は、路地や庭に鉢植えなどをおいて楽しんだ。江戸の町で、朝顔やほおずき、菊などの市が立つのは、こうした需要を満たすためである。
棟割長屋は、背中合わせにふたつの居室が双方の路地を向く二列形式の構造。こちらの方が、割長屋より規模が大きいことが多い。割長屋、棟割長屋ともに共同のトイレがあった。基本的な江戸の長屋の広さは九尺二間(間口約2.7m、奥行約3.6m)。入口にはへっついと呼ばれる竈をしつらえた台所、小さな座敷がふたつほど。家族がいるから、マイホームが欲しくなる。独りなら、これで充分だ。