別府温泉発の“異色の入浴剤”
箱を開けるとやさしい色のグラデーションが並ぶ。筒状に巻かれた紙にはエッセイのタイトルが記されている。
『年を重ねて』
気になる言葉を選び取り、風呂場へ向かう。
湯船に身を沈め、包み紙をほどくと、ずっしりと重みを感じる小袋が現れる。封を開けると白い粉。
ザラリとした感触を指で確かめ湯に落とす。みるみる溶けて、湯がうっすらと白濁する。手でかき混ぜると、ぬるりとろりとした感触。
いつもの入浴剤に慣れた鼻は匂いを探す。深く息を吸ってみても何の匂いもしないーー静かな湯。いい意味で、裏切られた。
包み紙を広げると、短いエッセイ。解き放たれた空間で、見知らぬ誰かの言葉で綴られた日常に思いを馳せる。気づけば指先はしわしわにふやけていた。
その名は『HAA for bath 日々』。大分県別府市の小さな温泉街で生まれた入浴剤だ。
2021年にクラウドファンディングで発売すると、1日足らずで目標額の50万円を達成。口コミが広がり、東京にある五つ星ホテルのスイートルームのアメニティにも採用された。
歩いて1時間ほどで回れる鉄輪温泉。この小さな温泉街から、なぜこのような製品が生まれたのか。その背景には、東京でキャリアを積み、地元で新たな一歩を踏み出した、ひとりの女性の物語があった。
忘れてしまった深呼吸
1988年、大分県別府市に生まれた池田佳乃子さん(37)は、子どもの頃から「ちょっと頑張ったら温泉でひと息つく」ことが当たり前の環境で育った。祭りで神輿を担いだ後は、友だちと10円玉を握って共同浴場へ。祖母の家の蛇口をひねれば温泉が出る日常がそこにはあった。
学校では、早くから生きづらさを感じていた。惰性の帰りの会が嫌で抜け出した。終業のチャイムが鳴るといの一番に校舎を後にした。理由のない集団行動に「意味ないじゃん」と感じていた。その感覚は東京で働くようになっても変わらなかった。
大手広告代理店では大きなプロジェクトを任され、やりがいを感じていた。でも、スケジュールに追われる毎日に気付けば呼吸は浅くなり、「肩が上がっている」とよく言われた。
忖度や建前が見え隠れする組織でまた、「意味ないじゃん」という感情が湧いた。別府では当たり前だった「ひと息つく」ことが、東京ではできなくなっていた。
30歳を前に、夫・航さんの「せっかく地元の別府があるんだから、別府でなんかやってみたら?」という言葉をきっかけに、2018年3月に別府へ移住。夫が暮らす東京との2拠点生活をスタートさせた。