「下呂の皆様に幸あれ」

記念碑のこの後を要約すると、

栄八の長男栄進は国鉄に就職した後、出征し中国やフィリピンなどを転戦。戦後は高山本線各駅長を務めた。

次兄稔は日本発送電(中部電力)に就職。難関の電気主任技術者第二種試験に合格した後独立し、中電の下請け会社りゅうでんを興し、創業社長として同社を発展させた。

〈注:記念碑に記述はないが、りゅうでん(本社は岐阜市)は電気工事などの専門業者で、スズキとも取引をする。現社長松田英文は鈴木修の甥に当たる〉

三兄正は名古屋に出て特定郵便局で修業し、愛知県江南市で特定郵便局長として20年務めた。勲五等瑞宝章を受けた。

四男である私は鈴木自動車工業(スズキ)二代目社長の鈴木俊三、妻とし子と養子縁組をして長女祥子と結婚。1958年に同社入社。78年から42年間社長会長を歴任。社長就任時3232億円だった売上高を3兆円を超えるまでに成長させた。藍綬褒章、勲二等旭日重光章を受けたほか、インド、パキスタン、ハンガリーからも民間人最高位の勲章を受けた。

長兄栄進の長男松田一美はスズキに入社し参与となった後、関係会社社長を務めた。しかし、2012年に65歳の若さで急逝した。一美の長男知倫はスズキに入社して浜松に居住する。

《よって松田家は父栄八の望んだ通り、子供たちは勿論孫たちも含めてすべて下呂を離れて活躍しておりますので現在では家屋を取り壊して、お墓だけが残っています。

この碑を建立して松田家のいきさつを申し述べるとともに、下呂の親戚の皆様、全ての郷里の皆様に、これまで大変お世話になりましたことへの心からのお礼を申し上げます。下呂の皆様に幸あれ》

と、文章は結ばれている。

記念碑は松田家の人間についてのみ、記されている。