温泉街に現れた生家跡
野中に軽自動車の助手席に乗車してもらい、鈴木修の生家跡に案内してもらう。町内の狭い道を低速で登っていくと、数分で着いた。やや急峻な丘陵地を登り切った平地にあり、現在は更地になっている。家屋はもうない。立ち入り禁止を示す黄色と黒のバーが、両端に設えた二つの赤いコーンで支えられていた。
生家跡から十数メートルほど、細い坂道を徒歩で下った右側に、松田家の墓所がある。広さは150平米ほどだろうか。中央には、まだ新しい墓石の「松田家代々の墓」が建てられ、美しい花がこの日も左右に手向けられていた。関係者によって手厚く管理されていることを、連想させる。
なお、墓石は巨大なものではなく、ごく一般的な慎ましい佇まいである。
「これを読んでみてください」。杖をついた野中が、指を指す。墓所の入り口に「記念碑」と刻まれた墓碑(石盤)がある。約1500文字からなり、最後に《二〇二〇年一月三〇日 卒寿を記念して 松田栄八 きわ 四男 鈴木(松田)修》と記されている。
内容は次の通りである。
都会へ出ろと薦めた父
《松田家はこの地、岐阜県益田郡下呂町森一三〇三番地に屋号阿多野と称して、享保年間より代々住んでおりました(中略)。私の父栄八は明治三〇年に生まれ、平成三年に九十三歳で亡くなりました。
栄八は松田家の次男として生まれたこともあり、家業の農業を嫌って家を飛び出し、大正初めに岐阜市に出て警察官となりました。(当時岐阜市に出たことは勇気ある行動でありました。)
明治三七年から三八年に起こった日露戦争で、松田家長男の平太郎が二十四歳で戦病死したことにより、栄八は下呂に呼び戻され、松田家並びに農業を継ぐことになりました。
松田家を継いだ栄八は、野村きわと結婚し四男三女をもうけました。栄八は農業を好まなかったため、下呂役場に勤める、いわば兼業農家でありました。母きわは農業に励み、その傍ら苦労しながらも四男一女を育てました。》
この後、重要な一文が行替えされて刻まれている。
《栄八は子供には下呂を出て大きな都会で働くことを勧めました。》
教員免許を取得した鈴木修が、下呂を離れて戦後の混乱と混沌とが色濃く残っていた東京に、敢えて旅立っていった理由は、どうやら父・栄八の勧めにあった。高い山に囲まれて空の広さが限定されていた故郷を出て、「大きな都会」である東京に出て行き、やがては世界に出ていくことになる。
