バスケットボール日本代表であり、NBAのシカゴ・ブルズでポイントガードとして活躍する河村勇輝選手。スポーツジャーナリストの島沢優子さんは「河村が小学生時代に所属していたミニバスの監督は、河村が入る前に指導法を大きく変えていた」という――。

※本稿は、島沢優子『叱らない時代の指導術 主体性を伸ばすスポーツ現場の実践』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

山口県の少年バスケで河村を育てた「学び」

「あの子はね、常にいいほうに裏切ってくれるんですよ」

河村かわむら勇輝ゆうきがミニバス(小学生)時代に所属した柳井バスケットボールスポーツ少年団(山口県柳井市)元監督の森本敏史としふみ。NBAプレーヤーに成長した教え子に、森本は自分の予想を何度裏切られたかわからない。

河村が山口県内の公立中学校から、高校王者の福岡第一高校へ進学するとき、森本は「3年間一度も試合に出られないかもしれない」と心配した。21歳で日本代表入りした際も「あの身長で他国に通用するのか」。NBA挑戦を発表したときも「プレータイム自体与えられるんだろうか」と不安を隠さなかった。

ところが、河村は2024年にメンフィス・グリズリーズとツーウェイ契約(NBAチームとその傘下にあるGリーグチームの両方でプレー可能な契約)を結ぶと開幕ロースター(登録メンバー)に残り、10月のヒューストン・ロケッツ戦に出場。日本人4人めのNBA選手となった。

「試合の配信映像を見るたびに、小学生だった勇輝を思い出します。あそこにパスしてほしいなって思ったとき、その通りにできる子はいい選手ですが、彼は、えっ! そこに投げるの? という驚きを見ている人にもたらします」

「えっ! そこに投げるの?」というセンス

だからこそ河村はNBAの観客から「ユウキ! ユウキ!」と出場をリクエストされる。たった1シーズンでアメージングな選手として認知された。

バスケットのような球技は、高いセンスや感性が幼少時に培われることが多い。であれば、河村にその環境を用意したのは森本だ。1996年、公立小学校で教鞭をとりながら同クラブで指導を始めた。前任者から監督を引き継いだ翌年、28歳のときに早くも全国大会にチームを導いた。中国大会でも優勝。ミニバスにのめり込んだ。

バスケットボールコートでコーチと練習する少年たち
写真=iStock.com/seven
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「怒鳴って指導していました。試合に負ければその点差分の回数など、罰走をさせていました。練習に活気がなければ、気持ちが出てないからダッシュしようかって言ってやらせたり。厳しくすればするほど子どもはついてくると思っていました」

実際、子どもたちは厳しい練習に食らいついてきた。最初の全国大会出場から8年後。またもチャンスが巡ってきた。170センチ級の長身選手をはじめ才能のある子どもが揃った。ライバルクラブから「森本君、全国大会間違いなしだね」と太鼓判を押された。

それなのに出場権を逃した。

「よくよく見ると、一人ひとり(の実力)が伸びていなかった。俺はこんなに一生懸命にやっているのに、なぜ子どもは伸びないのかって。本当に苦しかったですね」