創業者なのに自社株は20%しか持たなかった

1997年、銀座にタリーズ1号店を出店しました。最初は個人事業主のような形で、銀行から7000万円の借金をしてのスタートでした。寝袋を持ち込んでお店に寝泊まりして働き続けた結果、売り上げは少しずつ伸びていき、98年にタリーズコーヒージャパンという会社を設立することになりました。

実は、この辺りからすでに僕の失敗談は始まるわけなんですが、法人化の際、まず、1号店の内装をやってくれた会社が出資者に加わってくれることになりました。1号店の売り上げがどんどん伸びるのを見て、2号店、3号店も一緒にやりたいと言ってくれたのです。

松田 公太『すべては一杯のコーヒーから』(新潮文庫)
松田 公太『すべては一杯のコーヒーから』(新潮文庫)

米国タリーズも出資してくれることになりました。1号店がうまくいったら金を出してもよいという契約だったので、これは契約通りということです。そこに、ベンチャーキャピタルなども加わって、僕も含めた5者で、合計2000万円で出資をすることになったのです。

僕は当時、「出資者は仲間だから、出資額は均等にしてもよい」という考えを持っていました。出資比率なんかで喧嘩したくなかったし、力を合わせてタリーズを大きくしていくためには等分がいいと思ったのです。

つまり、創業者であり死ぬ気で働いていた僕自身が、20%しか自社株を持たなかったのです。このことがとんでもない事態を引き起こすことになるわけですが、当時の僕は若かったこともありますが、理想に燃えていたので、これでいいと思っていたのです。

米国タリーズを救済するためにMBOを実施

タリーズコーヒージャパンは順調に成長を続けていき、2001年、ナスダック・ジャパンに上場を果たしました。当時は新興市場ができたばかりで、飲食企業がベンチャーとして上場する前例もほとんどない中で、当時最速の設立後3年2カ月で上場を果たしました。

2002年にフードエックス・グローブという持ち株会社に移行したのですが、2004年、このフードエックス・グローブをMBOで非上場化しました。MBOとは、経営陣が既存の株主から株を買い取ってオーナーとなることを指します。

これは当時、毎年10億円もの赤字を出して潰れかかっていた米国タリーズを吸収合併して救済するためでした。結局、創業者のトムが最後まで役員会会長としての特別な権限を主張したので実現しなかったのですが……。代わりにタリーズの日本での商標権を買い取ることになりました。