長い目で育ててくれる伊藤園に任せたい

大手ファンドよりも少しでも高い金額を提示してくれる会社を連れてくる以外に、この難局を切り抜ける方法はありません。ブティック・ファンドは2週間後の役員会にタリーズの売却を提案することを決めていました。

僕はブティック・ファンドに悟られないように、水面下で動き回りました。もし僕が、「より高く買ってくれる相手」を探していることがブティック・ファンドに知れてしまえば、大手ファンドがさらに高い金額を提示してくる危険性があったからです。

僕は以前からアプローチを受けていた伊藤園に接触しました。お茶のブランドしか持っていなかった伊藤園がコーヒーのブランドを欲しがっていたのです。当時、コカ・コーラやサントリーの自動販売機の売り上げは7割以上が缶コーヒーで占められていたのです。伊藤園は有力なコーヒーブランドが必要でした。

仮に伊藤園にタリーズを売却することができれば、今後もしっかりと育ててくれると思いました。ファンドの場合は、外科手術的に事業も人も切ってしまうことがありますが、伊藤園がテイクオーバーしてくれれば、僕が大切にしてきたブランドも社員たちもしっかりと守り育ててくれるに違いない……。

会社の未来を賭けた、狭い会議室での攻防

役員会の数日前、僕はブティック・ファンド本社内の狭い会議室で、Aさんと向き合っていました。僕が会議室のドアの内鍵をかけるように依頼すると、Aさんは驚いたようでした。

僕は事前に作成しておいた、タリーズ株式を伊藤園に譲渡するための契約書類一式を、Aさんの目の前に置きました。「いまこの場で、この契約書にサインをしてくれれば、大手ファンドの10%増しで伊藤園がタリーズを買ってくれることになっています。ただし、あなたが一歩でもこの部屋を出たら、この話はなかったことにします」

Aさんにすれば、10%増しは魅力的な条件のはずです。しかし、この部屋を一歩でも出れば、大手ファンドに連絡を入れて、さらに高い金額を引き出してしまうかもしれません。10%という数字を交渉の材料にされないためには、「この部屋から一歩も出ない」という条件をつける必要があったのです。

「少し考えさせてください……」

Aさんは、それから1時間近く悩んだ挙句、契約書にサインをしてくれました。僕はすぐさま階下で待機してもらっていた伊藤園の本庄八郎会長に上がってきてもらうことにしました。

「えっ、下にいらっしゃるの?」

こうして、タリーズは伊藤園に譲渡されることになったのでした。