「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で生田斗真が怪演する一橋治済は、次の将軍の父であり、フィクサーとして描かれる。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「ドラマとしては面白いが、なんの役職もない治済にあれほどの影響力があったかは疑問だ」という――。

養子に出された松平定信が田沼意次の地位に

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)において少年時代の松平定信(幼名は賢丸)は寺田心さんが演じていました。そして成長した定信は、井上祐貴さんが演じます。

「田沼時代」を築いた老中・田沼意次(渡辺謙)は天明6年(1786)8月27日、老中を辞職、同年閏10月には2万石と大坂蔵屋敷を没収されるという憂き目に遭うのでした。意次辞職の2日前には、10代将軍・徳川家治(眞島秀和)が病死。政策の失敗(下総印旛沼干拓工事、大和金峰山の開発中止、反発を招いた御用金令など)などもあり、意次は将軍危篤から死去へという混乱の中で「政治責任」を取らされたと言えるでしょう。

10代将軍・家治亡き後、後継の将軍となったのが、徳川家斉です。オットセイの陰茎を粉末にしたものを飲んで精力を増強、55人もの子女を残したことで家斉は「オットセイ将軍」とも呼ばれますが、それはここでは詳述しません。

11代将軍の父・一橋治済は腹黒い策謀家だった?

家斉の父は徳川(一橋)治済という人物です。治済を「べらぼう」では生田斗真さんが演じています。同ドラマにおける治済は一見、人当たりが良く温厚そうな雰囲気を漂わせていますが、その裏では冷徹さと策謀をもって行動するダークさが際立っています。「悪役」と言えるでしょう。

一橋家があった江戸城一ツ橋方面(現在の皇居)、2019年
写真=iStock.com/Mauro_Repossini
一橋家があった江戸城一ツ橋方面(現在の皇居)、2019年

では治済とは実際にはどのような人物だったのでしょう。治済が生まれたのは宝暦元年(1751)のこと。父は徳川(一橋)宗尹。宗尹は8代将軍・徳川吉宗の4男でした。宗尹は御三卿のひとつ一橋家の初代当主となります。将軍家に後嗣がない時は御三家(尾張・紀伊・水戸)および御三卿(田安・一橋・清水)から適当な者が選定されることになっていました。ちなみに松平定信も吉宗の孫であり、田安家の出身です。

話を治済に戻すと宗尹の子として生まれた治済は、一橋家の家督を継承します。前述したように治済の子は家斉(幼名は豊千代)であり、家斉は天明元年(1781)に家治の養子に選定されていました。家治の嫡男・家基が18歳の若さで急死(1779年)し、家治には男子がいなかったからです。そしてこの家治の養子の選定を中心になって担ったのが田沼意次でした。意次の尽力もあり、家治の養子は治済の子(家斉)に決定されるのです。ちなみに家治からすると、家斉は従兄弟の子に当たります。将軍養子の選定という難題を解決した意次は1万石を加増されました。

【図表1】徳川御三卿の初代から二代