夫を亡くした8日後、婦人記者に応募した暢

暢が高知新聞に掲載された「婦人記者募集」の記事を見て、受験に挑んだのは、なんと夫を亡くしたわずか8日後。31人の中から合格者2人に選ばれ、最初は高知市役所の担当となり、進駐軍のジープに乗ってあちこち取材、女性問題や戦争遺族の窮状を報道した後、雑誌の『月刊高知』編集部に異動。そこにやなせが配属され、急接近することになる。

やなせは出会った頃の暢について「中根式速記の名手。ドイツ製一眼レフカメラを持ち、取材では大変役に立った」と語っており、親族は「総一郎さんはハイカラな方でライカのカメラを暢さんに贈ったそうです」と語っている(『やなせたかし はじまりの物語』)。