なぜ「結婚は恋愛の墓場」と言われるのか。芸術家の岡本太郎さんは自著『自分の中に毒を持て〈新装版〉』(青春文庫)のなかで「結婚によって“家”を守るために子供をつくり、それによって老後の“保障”を得ようなどとは、すべて卑しい感じがする」という――。

なぜ独身を通してきたか

恋愛と結婚とは全く別のことだと思う。

むしろ、“結婚は恋愛の墓場”というのは当たっている。結婚すると緊張もなくなり、双方安心してしまうので、もはや燃えるものはない。

結婚によって“家”を守るために、しきたり通り子供をつくる。それによって老後の“保障”を得ようなどとは、すべて卑しい感じがする。

とかく妻子があると、社会的なすべてのシステムに順応してしまう。たった一人なら、うまくいこうがいくまいが、どこで死のうが知ったことではない。思いのままの行動がとれる。

家族というシステムによって、何の保障もされていないことが、真の生きがいであると思う。だからぼくは自由に独身を通してきたのだ。

これを女性の側に立っていえば、“ほんとうはこっちの人が好きなんだけど、社会的には偉くなりそうもないし、あの人と結婚すれば、将来の生活が安心だから……”などという結婚は、極端に言うと一種の売春行為である。

そして、そういう安定の上に、ドテッと坐りこんでしまった女は、もはや“女”ではない。恋愛というものはまったく“無条件”なものである。そこに打算が入ると、やはり身を売っていることになる。空しい。

運命的な出会いとは何か

結婚する相手と出会うことだけが、運命的な出会いだと思っている人が多いようだが、運命的出会いと結婚とは全然関係ない。

自宅アトリエでの岡本太郎
自宅アトリエでの岡本太郎(画像=文藝春秋/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

たとえ、好きな女性が他の男と結婚しようが、こちらが他の女性と結婚しようが、それはそれだ。結婚というのは形式であり、世の中の約束ごとだ。ほんとうの出会いは、約束ごとじゃない。たとえば極端なことを言えば、恋愛というものさえ超えたものなんだ。つまり自分が自分自身に出会う、彼女が彼女自身に出会う、お互いが相手のなかに自分自身を発見する。

それが運命的な出会いというものだ。

たとえ別れていても、相手が死んでしまっても、この人こそ自分の探し求めていた人だ、と強く感じとっている相手がいれば、それが運命的な出会いの対象だと言える。

必ずしも相手がこちらを意識しなくてもいいんだ。こちらが相手と出会ったという気持ちがあれば、それがほんとうの出会いで、自己発見なんだ。