1月15日に小中学校の体育館で閉山式が行われた
当時、島に残っていたのは約2200人。1月16付の長崎新聞によれば、閉山式には「従業員をはじめ、その家族ら約780人が出席。鉱内事故などで死んだ215人のめい福を祈って黙祷を捧げた」という。
(中略)従業員を代表して端島労組組合長も「汗と炭じんにまみれ生産に励んできた。炭鉱の閉山突風の中で黒字のまま閉山するのは端島だけだ。この孤島で荒波に鍛えられた精神で第二の人生のスタートを切りたい」とあいさつすると、会場には感慨深く白いハンカチで目がしらを押さる主婦の姿も見られた。
(長崎新聞1974年1月16日付)
最盛期には東京ドーム1.4個分の土地に5000人以上が暮らし、人口密度は日本一。「一島一家」と言われた端島は、島国日本の縮図だった。食堂や市場はもちろん、映画館やスナックもあった。日本で初めてできた鉄筋コンクリート高層住宅が並び建ち、高層階の部屋からはリゾートホテルのように海が見える。そんな暮らしを続けたかった人も多いだろう。
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石油ショックが始まった中での会社解散は不安しかない
しかし、そんな気持ちの問題、ノスタルジーだけではなく、マクロ経済とミクロ経済の両面で、1974年の閉山は、最悪のタイミングだった。
1973年に第4次中東戦争を機に第1次オイルショックが始まり、果たして石油に依存する暮らしが成り立つのかという社会不安が日本全土を襲っていたからだ。
長崎新聞は「石油危機でにわかに“石炭見直し”がクローズアップしているなかで」と書き、朝日新聞も「エネルギー危機のさ中 数百万トンを残して 軍艦島あす閉山」と批判的な見出しを付けている。
(朝日新聞1974年1月14日付)