伊達家の二次史料に見る小手森落城のあらまし

まず伊達家の記録『伊達貞山治家記録』[一]である。

27日の朝、伊達軍が城攻めの布陣を整えた。すると小手森城の武士がひとり現れ、伊達成実しげざねの陣所に向かい、取次を願い出た。

「それがしは石川勘解由かげゆと申す者。成実殿の家士・遠藤下野えんどうしもつけと知り合いゆえ、対面を願いたい」

すると遠藤下野が「何事ぞ」と勘解由に応じた。

「すでに大内さまは小浜城へ移られた。この小手森には大内さまの側近がまだ多数残ってござるが、もはや落城間近。それなら、そのまま城をお渡しして、われらは主君のもとへ移りとうござる」

勘解由は伊達軍の様子を観察して、「話し合いの余地あり」と考え、このような提案を持ちかけたようだ。遠藤が主君の成実に事の次第を報告すると、めぐり巡って政宗のもとまで話が伝わり、交渉が開始された。

伊達軍は「提案を受け容れてもいい。しかし小浜城ではなく伊達領に移れ」と半分ほど譲歩してみせた。このまま無事に返したら、定綱と彼らが結束して徹底抗戦することは間違いない。それを避けるのは、当然の代案である。

すると勘解由は、城中の者たちと相談して、「主君のもとで一緒に自害したいから命乞いをしているのだ」と主張してきた。

戦国の世にこんな自分勝手な交渉が通るはずもない。

小手森城大手口、2008年
小手森城大手口、2008年(写真=PD-self/Wikimedia Commons

政宗は「主君の元へ行きたい」という命乞いをはねつけて攻撃

これを聞いた政宗は「御許容ナシ」の顔色で、「自分たちの陣構えが緩いから、城中の者も自分勝手なことを言い出すのだ(厳ク攻メ給ハサル故、城中如此ノ自由ヲ申出ス)」と怒り、「本丸まで攻め落とせ」と下命した。

よく見ろ大石侍、これが戦国時代だと言わんばかりの返答である。

こうして午後から総攻撃が始まった。城は夕暮れ前に陥落した。伊達軍は本丸に入るなり、「男女800人ほどを一人も残さず監視をつけて斬殺」したと言う。

800人斬殺──。僧侶に宛てた書状と同じ人数である。

ついで『伊達貞山治家記録』だけでなく、成実関連の二次史料『伊達成実記』を見てみよう。

ここでも、石川勘解由が交渉に登場しており、その内容はほぼ前述通りである。それで伊達軍が本丸を落とすと「(政宗が)撫で斬りにせよとの指示があり、男女・牛馬まで切り捨て、日暮れになって引き上げた」とある。

殺害した人数は記しておらず、「牛馬迄」を殺害したという点が、ほかの史料と異なっている。

ただしどちらも政宗の苛烈さは一致しており、その命令で城兵およびそれ以外の生き物全てが命を奪われたことになっている。

ただ、これがもし政宗と伊達軍のついた嘘であったとしたらどうだろうか。