1971年11月23日、斉さんは「中華風スナック ふーみん」をオープンする。店名の「中華風スナック」には、本格的な中国料理の店ではないということと、小腹を満たすような軽食を出す店であるという意味が込められていた。

記念すべき最初の客は、同じビルの上の階に住んでいる人物だった。

【斉】その方が、灘本唯人さん(イラストレーター)だったんです。私はイラストレーターという職業があることすら知らなかったんですが、一緒にお店をやってくれた友だちが耳年増っていうのかしら、「あの灘本さんのお友だちも有名なイラストレーターで、和田誠さんていうのよ」なんて、お客さんのことをいろいろ教えてくれたんです。

飾られた灘本唯人氏のイラスト
撮影=工藤睦子
日本を代表するイラストレーター灘本唯人は、「ふーみん」の一番初めの客だった

スーパースターを引きつける何か

同じビルには、灘本唯人の他にDCブランド「ニコル」を立ち上げた松田光弘がいた。「ピンクハウス」の金子功や三宅一生も近くに事務所を構えており、よく来店したという。当時のキラー通りには、若いクリエイターたちを引き付ける何かがあったのかもしれない。

やがて和田誠が知り合いを大勢連れてくるようになったが、その中には渥美清や永六輔の顔もあった。また、神宮球場が近かったこともあって王貞治までやってきたというから、ふーみんの著名人吸引力、恐るべしである。

【斉】和田さんのお友だちが毎週金曜日に外苑を一周するランニングをやっていて、走り終えるとみなさんで食事をするんです。最初はうちの向いにあったとんかつ屋さんにいらしてたんだけど、やがてうちに来るようになって。王さんは神宮球場で試合がある時によくいらしたけど、王さんのマネージャーさんがうちのアルバイトの子をかわいがってくれて、何度か神宮球場に招待してくれたりもしました。

斉さんも神宮球場に招かれたのだろうか。

【斉】私は誘われなかったから(笑)。私が社交的でないこともあるし、プライベートでいらしてるんだから、あんまり踏み込んじゃいけないという気持ちもありました。王さんや永六輔さんは、当時からご活躍だったからさすがにお顔を知っていましたけれど、あまりお客様がどんな職業の方か知ろうと思わなかったところもありますね。

これは、著名人が「ほっとする」重要なポイントかもしれない。斉さんの口ぶりから察するに、プライベートに踏み込まないようにしていたというよりも、そもそも客の職業に興味がなかったのではないか。

【斉】そうね。私がもっと社交的だったら、ずいぶんいろいろな方とお友達になれたのに。何かしらの繋がりがあったら、楽しいことがたくさんあったのかなとも思いますね。

きっと斉さんは、そうした繋がりや楽しいことを求めていなかったのだろう。だからこそ、著名人たちはふーみんで「普通の人」になることができた。

ちなみに、ふーみんのロゴは灘本唯人がデザインし、トレードマークのニンニクは五味太郎が描いている。ふたりとも、言わずと知れた超一流のアーティストだが、斉さんはそれを鼻にかける風もない。

笑顔の斉さん
撮影=工藤睦子
山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター

1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。