「秀子さんはこんな目にあっても、恨みつらみを言わない」
「私が秀子さんを尊敬している理由の1つが、恨みつらみを言葉にすることがないところ。警察、検察、裁判所に対しては『役所はそういうもの、仕事でやっていることだから』とおっしゃるんです。ご自身がかつては税務署に勤めていたこともあって、公的な組織の論理を体感としてわかっているから、そこに恨みつらみをぶつけることにあまり意味がないと思っているのでは……。
そんなことより、日々を穏やかに暮らすとか、巖さんが自由にやりたいようにやれるために自分自身のエネルギーを注いでいる。もっと高い次元で、現実をありのまま冷静に受け止めて自分に何ができるかを見定めている方なんです」
笠井監督がまだ出会ったばかりの頃、「今の自分は最初からじゃない。この何十年という闘いの日々が私をそうさせた」と言った秀子さん。その年月の重みをこう推察する。
「巖さんが47年7カ月獄中に囚われていたのと同じく、塀の外にいた秀子さんも47年7カ月巖さんと同じ時間を共有されていたと思うんです。秀子さんの場合は外で、巖さんにはない苦労もされているんですよね。世間からの強い風当たりや、メディアに書きたい放題書かれること、何より権力から弟を処刑されるという恐怖の状態に置かれ続ける苦労をされてきて。その中でいかに生き抜いて、かつ巖さんを守れるかをずっと考え続けられたこと、身を守る術を身につけていったことが、今の達観した秀子さんを形成していったのかなと思います」
映画に入れられなかった秀子さんの「50年目のメディア批判」
映画の主役は巖さんであることから、膨大にある取材映像の中で秀子さんの動画はあえて大幅にカットしている。しかし、その中でも笠井監督の印象に強く残っていることが、ふたつある。
ひとつは、巖さんが逮捕されてから50年の節目に行われた記者会見の映像だ。
「巖さんが釈放されるまでは、秀子さんはメディアに言いたいことをほとんど言わなかったんです。それが、釈放されてしばらく経った記者会見では、記者クラブで15人ぐらいの記者を前に、『あなた方にあれだけ書かれたことで家族がどうなったか』と初めて強い口調で堂々と言った。それまでどれだけ言いたくても言えなかったことなのだろうと思いました」
もうひとつは、メディアや世間が大きく誤解していること。それは「姉の秀子さんは弟・巖さんのために自分の人生を全て捧げてきた」という解釈だ。