嘉子さんは「むしろ仕事があったから家庭をなんとか保てた」
また、家庭人としての嘉子さんについて、乾太郞さんの末っ子・力さんも『追想のひと 三淵嘉子』の中でこう書いています。
「継母は持ち前の馬力で、進駐した我が家の支配権を掌中にし、娘達を嫁に出し、二人の息子もどうやら育てた。そして、仕事をした。仕事ぶりがいかに凄まじいものであったか(中略)。私は婦道記になぞらえて、子育てと仕事を立派にこなした継母を美化するつもりは全くない。むしろ、仕事があったからこそ、家庭をなんとか世間並のレベルで保てたのだと思う」
一方、『追想のひと 三淵嘉子』の裁判官・土井博子さんの文では、夫婦の別の面が見えてきます。
「仲睦まじいご夫婦であった。乾太郎判事はどちらかといえば学究的な理想主義者であり、金銭には淡白、日常家事には無頓着な方であったようで、絶えず煙草を手にして居られたが、その灰の落ちる前に夫人が灰皿で受け止めておられたことがあり、家事一切のご苦労は夫人の方にかかっていたようである」
夫婦で仲良く旅行や美術鑑賞、ゴルフを楽しんだ
ただし、別居婚で一緒にいられる時間が限られていたからこそ、嘉子さんと乾太郎さんは週末にはお互いの赴任先に行くなどして二人の時間を作り、夫婦仲は非常に良かったようです。
芳武さんから見せていただいた嘉子さんの日記には、休日には夫婦共通の趣味だった絵や焼き物の展覧会に行ったことや、旅行に出かけたこと、初詣でお餅を買ったことなど、日常のことがつれづれ書かれていました。また、ゴルフも二人の共通の趣味で、那珂さんいわく、「父は理屈でやるゴルフ、母は力で飛ばすゴルフ」だったそうです。
再婚後の乾太郎さんについて、那珂さんは長女としていろいろ思うところもあったようで、こんな本音を聞かせてくれました
「父はもともと、好き嫌いが激しいです。例えば音楽なら、ドイツの歌曲が好きでした。歌謡曲やジャズには関心がなく、全く耳を傾けませんでした。しかし、反面、父はいさかいが嫌いです。自分の好みと違っても、母が強く出ると『うん、うん』と言うのです。意見をぶつけ合うのでなく自分が引き下がります。私は父がもっと、彼女に対して強くなってくれればよいと思ったことも、ありました」