ドラマ「虎に翼」(NHK)のモデルである女性初の裁判所長は武藤嘉子として生まれ、最初の結婚で和田嘉子に。41歳のときに再婚して三淵嘉子となった。三淵さんの評伝を書いた佐賀千惠美さんは「嘉子さんにはひとり息子がいて、再婚相手には4人の子がいた。義母としてその4人のうち3人と同居することになった嘉子さんは、持ち前のパワフルさから、子どもたちには『気性が激しくて、つきあいにくい』とも思われた」という――。

子連れ同士の再婚でステップファミリーに

ドラマの中では寅子ともこ(伊藤沙莉)と星航一(岡田将生)の仲が進展していますが、モデルとなった嘉子よしこさんは、航一のモデル・三淵乾太郎みぶちけんたろうさんと昭和31年8月に結婚します。乾太郎さんは当時49歳、嘉子さんは当時41歳、子連れ同士の再婚でした。

乾太郎さんには長女・那珂なかさん、次女・奈都さん、三女・麻都さん、長男・ちからさんという4人の子がいましたが、那珂さんが裁判官と結婚した直後に乾太郎さんが嘉子さんと再婚。次女(21歳)、三女(18歳)、長男(14歳)のいる家庭に、嘉子さんは13歳だった実子の芳武さんを連れて同居することになったわけです。

二人の再婚に対し、表立って反対する声はありませんでしたが、それでも嘉子さんと三淵乾太郎さんの子どもたちの間にはかなり摩擦も起こったようです。

現在のさいたま家庭裁判所(さいたま地方裁判所内)
現在のさいたま家庭裁判所(さいたま地方裁判所内)。2001年までは浦和家庭裁判所であり、三淵嘉子は1973年から77年まで所長を務めた(写真=Ebiebi2/PD-self/Wikimedia Commons

義理の息子になった男性は「ひと言で言えば猛女でした」と語った

末っ子であり長男の力さんは、嘉子さんが亡くなった後にこう記しています。

「ひと言で言えば猛女でした。一人息子の芳武を連れて嫁いできたとき、継母(嘉子)はいわば敵地に乗り込む進駐軍、といった気持ちだったのでしょう。昨日は仲睦まじかったと思えば、今日は言い争いといったふうに波乱が起き、我が家は平穏とはとても言い難い状態でした」(『追想のひと 三淵嘉子』)

中でも嘉子さんと一番激しくぶつかったのは、結婚して外に出ていた長女の那珂さんだったようで、取材の際にはこんな率直な思いを私に語ってくれました。

「私は(嘉子は)継母だという感覚はまったくありません。『父の連合つれあい』だと思っていました。(嘉子は)親身になって人の相談に乗りました。ですから他人にとってはよかったでしょう。しかし、ひとりよがりの自分の正義で、憤慨することがありました。身内としてはつきあいにくかったですね」

嘉子さんが自分の正義を押し付けてくることに、辟易へきえきしていたのかもしれません。長女の那珂さんは、すでに結婚して家を出ているからこそ、家に残した3人の妹弟を守ってあげなければと思っていたのでしょう。

嘉子さんの気性の激しさは、実子の芳武さんから見ても目に余ることもあったようで、あるとき嘉子さんと那珂さんが電話で言い争った際、すっかり興奮して筋の通らないことを電話で言っている母に、思わず「やめろ!」と怒鳴り、電話を終わらせたことがあったと話していました。

気性の激しい嘉子を子どもたちは理解し、家族として支える

ただし、そんな嘉子さんに悪気はなく、気性が激しいだけだということも、乾太郎さんの子どもたちは理解していたようです。後年は関係も良好になり、乾太郎さんの長男夫妻とは一緒に金沢旅行もしていますし、三女は嘉子さんが病気に倒れた際、献身的に看病し、差し入れの料理に文句をつける嘉子さんのわがままさえ愛しく感じていたと言います。

一方、実子の芳武さんは、「母は初めての女性の法曹の一人で、男の社会で戦っていました。安心して全てを話し、相談できる夫を得ましたから、幸せでしたね」と振り返っていました。しかし、嘉子さんが再婚して三淵姓になった後も、芳武さんはずっと和田姓を名乗り続けていました。

とはいえ、芳武さんが新しい家族に馴染めなかったわけではおそらくありません。乾太郎さんは芳武さんにずいぶん気を遣っていたらしく、芳武さんのほうに寂しさや不満はあまりなかったようです。なぜなら乾太郎さんもまた、5歳のときに実の母親を病気で亡くしていて、父の忠彦さんが後妻を迎えていたため、芳武さんには寂しい思いをさせないようにという思いがあったようなのです。

裁判官同士の夫婦のため、転勤で別居婚状態になった

そんな芳武さんは、親と同じ法曹の道は選ばず、東京大学の医学部を出て医師の道に進んでいます。親と同じ道を歩む人もいる一方、親と同じ道は嫌だと思う人もいるのは当然のこと。しかも、芳武さんにとっては、実母も義父も、義理の祖父も法曹界の有名人ですから窮屈だと思ったのかもしれません。

それに芳武さんは、当時、日本で最も自由といわれるような玉川学園の小学校に通い、そこですら枠からはみ出すようなタイプ。頭の回転が速く賢い子だったそうで、学校の授業中にふらりと外に出て虫取りに行ってしまうような自由人ですから、あえて親と同じ道は選びたくなかったのだろうと、私は勝手ながら推測しています。

ちなみに、嘉子さんと乾太郎さんは裁判官同士のため、単身赴任での別居婚のような形でした。

三淵嘉子、乾太郎夫妻、1957年9月
写真=©三淵邸・甘柑荘/アマナイメージズ
三淵嘉子、乾太郎夫妻、1957年9月

検事同士、裁判官同士の結婚は時々あるので、今は任地を多少配慮してもらえるようになっているかと思いますが、基本的には2年おき、あるいは3年おきに異動があるので、単身赴任になることも多いのです。嘉子さんと乾太郎さんは、東京と甲府、浦和と新潟に離れたこともありました。日常の家事は、住み込みのお手伝いさんがやっていましたので、生活には困らなかったのでしょうが、こうした夫婦のあり方について、那珂さんはこんな話をしていました。

「父は身の回りの片付けは、自分でします。また、おしゃれですので、洋服も自分で買います。しかし、あるとき官舎の隣の方からおかずをいただいたそうです。翌日、食べたらいたんでいて、おなかをこわしたと言っていました。転勤先についていけない人を、自分で妻に選んだのだから、しかたないですよ」

嘉子さんは「むしろ仕事があったから家庭をなんとか保てた」

また、家庭人としての嘉子さんについて、乾太郞さんの末っ子・力さんも『追想のひと 三淵嘉子』の中でこう書いています。

「継母は持ち前の馬力で、進駐した我が家の支配権を掌中にし、娘達を嫁に出し、二人の息子もどうやら育てた。そして、仕事をした。仕事ぶりがいかに凄まじいものであったか(中略)。私は婦道記になぞらえて、子育てと仕事を立派にこなした継母を美化するつもりは全くない。むしろ、仕事があったからこそ、家庭をなんとか世間並のレベルで保てたのだと思う」

一方、『追想のひと 三淵嘉子』の裁判官・土井博子さんの文では、夫婦の別の面が見えてきます。

「仲睦まじいご夫婦であった。乾太郎判事はどちらかといえば学究的な理想主義者であり、金銭には淡白、日常家事には無頓着な方であったようで、絶えず煙草を手にして居られたが、その灰の落ちる前に夫人が灰皿で受け止めておられたことがあり、家事一切のご苦労は夫人の方にかかっていたようである」

夫婦で仲良く旅行や美術鑑賞、ゴルフを楽しんだ

ただし、別居婚で一緒にいられる時間が限られていたからこそ、嘉子さんと乾太郎さんは週末にはお互いの赴任先に行くなどして二人の時間を作り、夫婦仲は非常に良かったようです。

芳武さんから見せていただいた嘉子さんの日記には、休日には夫婦共通の趣味だった絵や焼き物の展覧会に行ったことや、旅行に出かけたこと、初詣でお餅を買ったことなど、日常のことがつれづれ書かれていました。また、ゴルフも二人の共通の趣味で、那珂さんいわく、「父は理屈でやるゴルフ、母は力で飛ばすゴルフ」だったそうです。

再婚後の乾太郎さんについて、那珂さんは長女としていろいろ思うところもあったようで、こんな本音を聞かせてくれました

「父はもともと、好き嫌いが激しいです。例えば音楽なら、ドイツの歌曲が好きでした。歌謡曲やジャズには関心がなく、全く耳を傾けませんでした。しかし、反面、父はいさかいが嫌いです。自分の好みと違っても、母が強く出ると『うん、うん』と言うのです。意見をぶつけ合うのでなく自分が引き下がります。私は父がもっと、彼女に対して強くなってくれればよいと思ったことも、ありました」

嘉子は「夫婦の間には雑草が生えやすい」とアドバイス

裁判官だった伊藤政子さんは、結婚したとき、嘉子さんが言ったこんな言葉を振り返ります。

「夫婦の間には雑草が生えやすいものです。結婚生活を続けるためには、その雑草を小まめに取り除くようにすることですよ」(『追想のひと 三淵嘉子』)

嘉子さんたちはお互い連れ子を抱えての再婚ですから、不安もあったでしょう。また、夫婦生活をしていく上では、雑草が生えてくることもあったでしょう。それでも嘉子さんがあえて再婚しようと思ったのは、乾太郎さんへの愛情はもちろんのこと、「家族」というものへの強い思いもあったのではないかと私は思います。

なぜなら嘉子さん自身、両親ときょうだいの愛情をたっぷりに注がれ、育ってきたために、「家族」への思い入れがあったし、新しい家族を作ることへの自信もあったでしょう。しかも、再婚相手は同じ裁判官同士。守秘義務があるので事件の詳細などについては話すことはできないにしろ、苦悩を分かち合い、理解し合えるパートナーでもありました。

家庭でも仕事場の裁判所でも人知れず苦労を重ねていた

再婚してから16年目。昭和47年(1972年)6月、嘉子さんは新潟家庭裁判所の所長になります。新聞には「わが国で初めての女性の裁判所長が十五日付で誕生」とあり、嘉子さんの裁判は男性だけで運営されるべきではないという談話も掲載されました(朝日新聞、昭和47年6月15日付)。その後、浦和、横浜と、あわせて3つの家庭裁判所の所長を経験しています。女性の裁判所長は日本で初のことでした。

佐賀千惠美『三淵嘉子の生涯 人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)
佐賀千惠美『三淵嘉子の生涯 人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)

女性を一段低く見る風潮が残っていた時代に、男性の上に立つと、反発されがちなもの。東京家庭裁判所の参与員・土肥茂子さんはヨーロッパの香水をお土産に持って行ったときのことをこう振り返っています。

「三淵さんは、丁寧にお礼を述べたあと、『でも、あたくしは、香水をつけないのよ。法廷で、香水のにおいがすると、書記官が気になるらしいの。だから、もう若いころから、香水なしで過ごしているのよ』といった。その言い方がサッパリしているので、贈った方も、全然、傷つかなかった。だが、男性の中で、人知れず苦労を重ねたであろうことは、十分に想像された」(『追想のひと 三淵嘉子』)

豪快なイメージが強い嘉子さんですが、男社会で女性が上に立つのは非常に困難なこと。いろいろな苦労もしたためでしょうが、嘉子さんは実は細かな気配りの人でもあったのです。