腕時計の量産化に成功、セイコーグループが誕生

服部時計店は時計メーカーとしての地歩を固め、近代的な会社組織を整えていく。1917年には個人企業だった会社形態を会社組織に改め、株式会社服部時計店を設立。終戦後の1949年には株式上場を果たした。

1937年に精工舎の腕時計部門を分離し、株式会社第二精工舎(現 セイコーインスツル)を設立した。1959年に長野県諏訪市の第二精工舎諏訪工場が株式会社諏訪精工舎(現 セイコーエプソン)となった。

精工舎の孫会社にあたる諏訪精工舎は、デジタルプリンターの開発に進出。コンピューター本体ではなく、周辺機器に特化した企業戦略は大成功を収め、国内でも有数のプリンターメーカーとなった。なお、1985年、諏訪精工舎は子会社の信州精器(合併直前で「エプソン」と社名変更)と合併し、セイコーエプソン(EPSON)となった。ちなみに、EPSONとはE(エレクトリック)、P(プリンター)のSON(子供)という意である。

評価の高い次男ではなく、長男の家系が世襲

1934年、服部金太郎が死去すると、長男の服部玄三(1888~1964)が服部時計店社長に就任したが、終戦後に辞任し、1946年に弟の服部正次(1900~1974)が社長に就任した。

経営者としての評価は次男・正次とその子の一郎の方が高いが、服部一族は長男・玄三の家系が服部時計店社長を世襲するしきたりになっているようで、1974年に正次が死去すると、玄三の長男・服部謙太郎(1919~1987)が服部時計店の四代目社長に就任した。

1983年、謙太郎は弟の服部れい(※正しくはしめすへん)次郎(1920~2013)に社長職を譲ると、1987年に急死してしまう。この1987年は服部家にとって災難多き年となってしまった。

7月にはグループ内で信望高かったセイコーエプソン社長の一郎(1932~1987)が急死。9月に一族の総帥・謙太郎が死去、禮次郎が社長を辞任し、初めて一族以外の吉村司郎が服部時計店社長に就任することになった。

謙太郎・一郎の死後、禮次郎が一族の長としてセイコーグループに君臨したが、禮次郎の晩年に、服部一族は混迷を見せ始める。21世紀に入ってから、同族会社にありがちな「御家騒動」が2度も起こってしまったのである。

服部家と三菱・岩崎家、ミキモト・御木本家などの関係
画像=筆者作成
服部家と三菱・岩崎家、ミキモト・御木本家などの関係