「時計王」服部金太郎は古物商の子だった
ドラマ「黄金の刻 服部金太郎物語」(原作:楡周平『黄金の刻 小説 服部金太郎』)の主人公は、「時計王」とも呼ばれた服部金太郎(1860~1934)である。
服部家は代々尾張藩(名古屋市)の武士だったと伝えられている。だが、いつの頃からか武士をやめて町人となり、名古屋で材木商を営んでいたという。そして、幕末になって、金太郎の父・服部喜三郎が江戸に出て尾張屋と称し、銀座京橋で古物商を始めた。一説には露天商ともいわれ、貧乏というほどではないが、裕福ではなかったらしい。
服部金太郎は喜三郎の一人息子として生まれ、13歳(数え年)の時に洋品雑貨問屋・辻屋に丁稚奉公に出た。そして、なにげなく自分の将来を思い描いた時、辻屋の近くにある小林時計店が脳裏に浮かんだという。
「雨天の日には辻屋も小林時計店も同じように客足は少ない。そのような日に、辻屋で店番をしている店員たちが手持ち無沙汰なときでも、小林時計店では店員一同、せっせと時計の修繕に励んでいる。同じ物品販売業でも、時計業は販売によって利益を得るのみならず、修繕もして修繕料が得られる。大切な『時』を無為にすごさなくともよい」と、金太郎は時計屋を志した理由を述懐している。
セイコーの始まりは金太郎が始めた時計修理の店だった
そこで、1874年に金太郎は日本橋の亀田時計店、ついで1876年に黒門町の坂田時計店へ移り、修繕の技術を学び蓄財に励んだ。
ところが、1877年、坂田時計店が倒産したため、金太郎は18歳で自宅に戻り、服部時計修繕所の看板を掲げて中古時計の修理と販売を始め、その傍ら南伝馬町の桜井時計店や西黒門町の中山時計店に時計工として通って技術を磨いた。そして、開業資金150円がたまったので、1881年に京橋に服部時計店(現 セイコーホールディングス)を設立した。
創業当初は、舶来時計の輸入を主たる事業としていたが、その10年後には、日本で初の掛け時計の製造にも成功し、これを機に本所区石原(東京都墨田区)に「精工舎」という工場を設立した。
1890年代後半は、日本の時計メーカー、特に服部時計店と精工舎にとって大きく飛躍した時代だった。1894年に日清戦争が勃発し、国内の機械産業が盛んになると、精工舎はその波に乗って急拡大し、東京の時計生産の3分の1強を占めるまでに急成長した。
事業が軌道に乗り、生まれ育った銀座の町に時計塔を建てた
1894年、服部金太郎は都心の一等地、銀座四丁目の角地にあった旧朝野新聞社の社屋を購入した。そして、屋上に時計台を持つ近代的なビルを完成させ、服部時計店の本社を移して営業を始めた。
しかし、精工舎の技術を世に知らしめる広告塔でもあったこの初代時計塔は、1923年(大正12年)に起こった関東大震災によって倒壊してしまう。その後、1932年、同じ場所に服部時計店が再建され、現在、銀座のシンボルとして親しまれている時計塔となった。ゴジラ映画によく出てくるあの和光本店(服部時計店の小売部門から設立、現 セイコーハウス銀座)である。
未曽有の震災で金太郎は銀座の社屋や工場や自宅、そして顧客から預かっていた修理中の時計などを失った。築き上げてきたものの大部分を失い、一度は落胆したが、すぐさま精工舎の復興に着手。翌年3月には柱時計の、12月には腕時計の出荷を再開した。さらに、1925年(大正14年)には難しいとされていた腕時計の量産化にも成功した。
第一次世界戦時、イギリスやフランスから大量発注
一方、精工舎では製造品目を広げ、1895年に懐中時計、1913年に腕時計の製造を始めた。そして、1907年に服部時計店・精工舎製の懐中時計「エキセント」は、宮内庁の指定を受けて恩賜の時計に選ばれる栄誉を得た。「恩賜の時計」とは帝国大学や陸軍大学、海軍大学、学習院で優秀な成績で卒業する者に与えられる時計で、優れた時計と言えば海外製品が当たり前だった時代に、日本製の時計が公に認められた瞬間だった。
自信を深めた服部金太郎は清国(現 中国)へ時計の輸出を始め、1910年頃には上海の市場を独占するまでに成長した。第一次世界大戦が勃発すると、戦場となったヨーロッパから服部時計店に精工舎製の時計の注文が大量に寄せられた。イギリスから目覚まし時計約60万個、フランスから小型目覚まし時計約30万個という、当時としては驚異的な大量発注だったという。
腕時計の量産化に成功、セイコーグループが誕生
服部時計店は時計メーカーとしての地歩を固め、近代的な会社組織を整えていく。1917年には個人企業だった会社形態を会社組織に改め、株式会社服部時計店を設立。終戦後の1949年には株式上場を果たした。
1937年に精工舎の腕時計部門を分離し、株式会社第二精工舎(現 セイコーインスツル)を設立した。1959年に長野県諏訪市の第二精工舎諏訪工場が株式会社諏訪精工舎(現 セイコーエプソン)となった。
精工舎の孫会社にあたる諏訪精工舎は、デジタルプリンターの開発に進出。コンピューター本体ではなく、周辺機器に特化した企業戦略は大成功を収め、国内でも有数のプリンターメーカーとなった。なお、1985年、諏訪精工舎は子会社の信州精器(合併直前で「エプソン」と社名変更)と合併し、セイコーエプソン(EPSON)となった。ちなみに、EPSONとはE(エレクトリック)、P(プリンター)のSON(子供)という意である。
評価の高い次男ではなく、長男の家系が世襲
1934年、服部金太郎が死去すると、長男の服部玄三(1888~1964)が服部時計店社長に就任したが、終戦後に辞任し、1946年に弟の服部正次(1900~1974)が社長に就任した。
経営者としての評価は次男・正次とその子の一郎の方が高いが、服部一族は長男・玄三の家系が服部時計店社長を世襲するしきたりになっているようで、1974年に正次が死去すると、玄三の長男・服部謙太郎(1919~1987)が服部時計店の四代目社長に就任した。
1983年、謙太郎は弟の服部禮(※正しくはしめすへん)次郎(1920~2013)に社長職を譲ると、1987年に急死してしまう。この1987年は服部家にとって災難多き年となってしまった。
7月にはグループ内で信望高かったセイコーエプソン社長の一郎(1932~1987)が急死。9月に一族の総帥・謙太郎が死去、禮次郎が社長を辞任し、初めて一族以外の吉村司郎が服部時計店社長に就任することになった。
謙太郎・一郎の死後、禮次郎が一族の長としてセイコーグループに君臨したが、禮次郎の晩年に、服部一族は混迷を見せ始める。21世紀に入ってから、同族会社にありがちな「御家騒動」が2度も起こってしまったのである。
2006年、グループ会社会長だった四代目が電撃解任
2006年、セイコーインスツル(旧第二精工舎)は筆頭株主の会長・服部純市(旧名・純一で謙太郎の子)を解任した。
解任された純市は、セイコーホールディングス(旧服部時計店)の名誉会長・服部禮次郎(純市にとって叔父)、セイコーウォッチ社長・服部真二(純市にとって弟)、セイコーインスツル社長・新保雅文が解任劇を仕組んだとしてマスコミに不満をぶちまけ、親族である禮次郎・真二を名誉毀損で訴えると息巻いた。これに対し、セイコーインスツルは純市が在任中に不明朗な会計処理があったと、約1億円の損害賠償請求を東京地方裁判所に起こした。
さらに2010年には、その禮次郎、真二が敵味方に分かれて再び解任劇を演じる(ちなみに真二は、叔父・禮次郎の養子になっている)。
2010年4月30日、セイコーホールディングス役員会は社長・村野晃一を解任し、副社長の真二が社長に就任。さらに同日、100%出資の販売子会社・和光の臨時株主総会を開き、真二はセイコーホールディングス社長として和光の社長兼会長・禮次郎、および専務・鵜浦典子を解任したのである。
オーナー企業ではなぜ「御家騒動」が頻発するのか
鵜浦典子は禮次郎の秘書から抜擢されたが、パワーハラスメントで週刊誌をにぎわしたため、心ある役員たちが真二と結託し、鵜浦と禮次郎を解任すべくクーデターを起こしたといわれている。
もはや親子でも兄弟でも容赦なく解任するという仁義なき同族闘争が展開し、世間を騒がせた。
なぜ「御家騒動」が頻発するかと言えば、創業から150年を経た現在もいまだに服部一族が大株主として君臨し、トップを世襲しているからだろう。五代目社長・禮次郎の妻・悦子が全体の8.7%、現会長の真二が5.5%、真二の実弟・秀生が3.9%を保有している。
自動車や家電メーカーは大規模な工場を建設しなければならないので、どうしても資本金が巨額となり、個人では大株主の座を維持できなくなる。これに対して、流通、建設、製薬業などはそこまで巨額な資本金を必要としないことから、大株主の座を維持しやすく、世襲が続きやすい。
ただし、同族会社がすべて御家騒動を起こしているわけではない。一度、御家騒動が起きてしまうと、「また同じような手で更迭しよう」などという発想が生まれてしまうのかもしれない。
ちなみに服部一郎の一人娘・聡子は、現天皇の有力なお后候補だった。もし皇太子妃になっていたら、服部一族は自重して御家騒動なんか起こさなかっただろう。人生なんてちょっとしたことで変わってしまうっていうことだ。
服部家の歴史は、オーナー企業や同族経営の難しさを感じさせる。現在、セイコーグループを率いるのは、金太郎の直系のひ孫であり、2012年にCEOとなった十代目・服部真二会長である。セイコーの今後はどうなるのだろうか。