二代将軍・秀忠は家康の神号問題をどう判断したか

ところが家康死去直後、駿府城で南光坊天海と金地院崇伝との間で論争が起き、崇伝は祀る作法は神道を司る吉田家に任せ、神号は勅定によるとしたのに対し、天海は、作法は山王さんのう神道(両部習合神道)、神号も「権現ごんげん」とすべしとし、また「明神」は豊国大明神の例をみればわかるように良くないと主張する。江戸に戻った秀忠は、吉田家につながる神竜院梵舜しんりゅういんぼんしゅんに「権現」と「明神」の優劣を問いただしたうえで、家康を「権現」として祀るよう命じる。

秀忠の奏請を受けた禁裏では、公家たちが集められ、仏家が神号を云々することに異論が出るが、将軍の執奏でもあるということで「権現」と決める。名については朝廷から「日本権現」「東光権現」「東照権現」「霊威権現」の案が示され、秀忠は自ら「東照大権現」の神号を選び、それを受けて朝廷では元和2年9月に勅許する。そして、翌年3月、朝廷は正一位の贈位を決め、4月、日光に造営された社殿への仮遷宮の日に宣命使がそれを伝えた。

家康を神として祀る日光東照宮、栃木県
写真=iStock.com/Torjrtrx
家康を神として祀る日光東照宮、栃木県

神とするには天皇を抜きに行うことはあり得なかったが、朝廷は、秀吉のときには「新八幡」を入れなかったのに、家康のときは将軍秀忠の意向にそって「権現」と決し、具体的な神号も秀忠の意向に従い決まる。このように、家康の神号決定は、将軍側の優位のもとに進められ、天皇の役割はその形を調えるに過ぎなかった。

家康の死の翌年、秀忠は上洛し「天下人」であることをアピール

元和3年6月、秀忠は、東国の諸大名を動員し数万の軍勢で上洛する。在府の西国大名も秀忠にあい前後して江戸を発ち京都へと向かい、領地にいた大名も多くが上洛する。大名の供奉ぐぶをともなう上洛は、軍事指揮権が秀忠にあることを示し、秀忠が「天下人」であることを諸人に認めさせる一つの手段であった。

この上洛中、秀忠は、大名・旗本・公家・寺社等に領知朱印状を一斉交付する。対象となった大名数は、確認できるものだけで外様大名31人、譜代大名13人の合計44人である。その多くは、島津家久・黒田長政・福島正則などの西国外様大名と美濃・三河・尾張・丹波・摂津などに所領を持った譜代大名であり、東国大名は対象とされなかったようである。