※本稿は、黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)の一部を再編集したものです。
「気鬱」の病で医者にかかっていた33歳の茶々
家康が、将軍任官を見据えて、後陽成天皇の行幸を迎えるための新たな屋形を、京都に造営することの計画が明らかになったのは、伏見城に移ってから2カ月後の慶長6年(1601)5月のことであった。その直後といっていい6月10日、茶々は医師曲直瀬玄朔の診療をうけている(『玄朔道三配剤録』)。これを編集した『医学天正記』にみえる記載を掲げよう。
この年、茶々は33歳であったから、「御年三十余」というのは合っている。症状は、「気鬱」「不食」「眩暈」であった。気鬱により、食事できず、さらに眩暈がしていた、ということらしい。この症状に対して曲直瀬玄朔は、「快気湯」と生薬の「木香」を飲ませたことがみえている。
これによってこのとき、茶々はいわゆる鬱病に罹っていたことがうかがわれる。ただし、ここには病状だけが記されているにすぎないので、どうしてそのような状態になったのかは、もちろん不明である。しかし茶々は、羽柴家当主秀頼の後見役として、事実上の羽柴家の女主人であったことからすると、やはりその原因は、羽柴家を取り巻く政治情勢によるものと考えるのが妥当と思われる。
家康は伏見城を拠点に移し、将軍任官を狙っていた
そのようにみた場合、何よりも思い当たることは、家康との関係の変化となろう。3月、家康は大坂城から伏見城に移って以後、伏見城を「天下の政庁」とし、あわせて諸大名の屋敷も大坂から伏見に移転させた。このことは、諸大名が忠節を示す対象が秀頼ではなく、家康になったことを意味していた。またそれとともに、家康によって、秀頼の居城と領知が確定された。これにより羽柴家は、政権から明確に分離され、その領国支配によってのみ存立を遂げることになったから、そうした家の存立の在り方からみれば、事実上、一個の大名と変わらない存在に位置づけられることになった。
そのうえで家康は、将軍任官を意図するようになっていた。これは明らかに、羽柴政権を解消し、自身を主宰者とする新たな政権樹立のためであった。すでに家康は、諸大名に対して主人として存在し、朝廷との関係や諸外国との関係を執り行い、事実上の「天下人」として存在していた。将軍任官は、家康を名目的にも「天下人」とする装置であり、これにより、名実ともに「天下人」としての地位を確立させるためのものであることは、誰の目にも明らかであったに違いない。