江戸幕府はあくまで武士による軍事政権だった
家康にとって、政治は軍事がベースでした。領主の義務として領地をきちんと守ることを求めますが、それは領地を経営するということではなく、敵から領地を防衛するためです。徳川家に攻めてくる敵を撃退することが至上命令なのです。実際、江戸、京都、大坂など幕府にとっての重要な都市の周辺には、譜代大名や外様大名でも信頼が置ける者を配置しました。家康が求めた人材は、政治家や行政官僚ではなく軍政家でした。
家康は、鎌倉幕府編纂の歴史書『吾妻鏡』を読んでいたと言われています。鎌倉幕府は「武士の武士による武士のための政権」です。家康も、これを意識していたことは間違いありません。
家康が考えていた政治は、暮らしを豊かにして民衆を幸せにすることが目的ではありません。もちろん、人々の暮らしはしっかり守りますが、それは徴兵・徴用のための手段であって、敵が来襲してきた時にきちんと戦えるために万全な統治を行なう。それが家康の政治なのです。
家康の幕府防衛構想には朝鮮出兵への反省があったか
関ヶ原の戦いから大坂の陣の期間までを実例としながら、徳川家康の幕府防衛ラインの構想について見ていきます。基本となるのは、次の2点です。
①江戸を含む関東と中部地方は譜代大名で固める
②娘や嫡孫など近い血縁者を重んじる(彼女らの婚家にも甘い)
家康は信長や秀吉と異なり、当時は僻地だった江戸で幕府を開きました。しかも関東地方と、自身が切り取った東海・甲信地方は譜代大名で固めています。このあたりに、家康の「江戸を防衛するぞ」という強固な意思が見て取れます。攻めより守り。これが家康政権の軍事思想なのです。朝鮮半島に出兵して大失敗した秀吉の方法への反省が込められているようにも思います。
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。