なぜ徳川家康は260年間も続く長期政権の礎を築けたのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「大名たちを親藩、譜代、外様で区別し、幕府要職にある者の領地は少なく、領地が広い者のポジションは低くした。古代ローマ帝国にも似た統治を行った」という――。

※本稿は、本郷和人『天下人の軍事革新』(祥伝社新書)の一部を再編集したものです。

天下人となった家康は豊臣家も家臣として扱い、領地を決める

関ヶ原の戦いのあと、家康は全国の諸大名に対して、転封を含む知行割ちぎょうわりを行ないました。知行(知行地)とは、武士に支給された領地のことです。領地を与える・奪うことは、主従関係がなければできません。つまり、家康と諸大名の間に主従制的支配権が設定されたのです。家康は天下人になったわけです。

諸大名のなかには豊臣家も含まれており、豊臣家は220万石から65万石に減らされています。この処置は、家康が豊臣家に対して主従制的支配権を握ったことを証明するものです。教科書では、江戸幕府の成立を、家康が征夷大将軍の宣下を受けた1603年に設定しています。しかし私は、諸大名への主従制的支配権が設定された1600年こそ江戸幕府の成立の年である、と主張しています。

江戸幕府は親藩しんぱん(徳川氏一門の大名)、譜代ふだい大名(三河以来の家臣などで大名に取り立てられた者)、旗本、御家人を合わせると、20万人を超える兵力を動員できる絶大な軍事力を持っていました。幕府政治は軍事力を背景に執り行なわれましたから、まさに軍事政権です。この基本構造は、幕末まで変わりません。

「江戸城図屏風」(部分)
「江戸城図屏風」(部分)(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ポストと経済力を同時に与えず、大名たちの力を削いだ

家康は征夷大将軍就任の2年後となる1605(慶長10)年、朝廷に秀忠への将軍宣下を行なわせ、将軍職を譲ります。2年後、家康は江戸城から駿府城に移ると、「大御所政治」を始めます。江戸(秀忠)と駿府(家康)の二元政治です。

家康は、儒学者の林羅山、僧侶の金地院崇伝ら多彩なブレーンを集めて国家経営の知恵を出させ、それを江戸幕府に実行させました。この分断方式は幕府の合議制・集団指導制につながり、やがて老中制へと発展していきました。二元政治は、政権が成熟した秀忠の没後に解消しています。

分断して統治せよ――。これはローマ帝国などで使われた手法で、支配者が被支配者たちの団結・結束を防いで統治を容易たらしめることを意味します。家康も、譜代大名と外様大名(関ヶ原の戦い前後に徳川氏に臣従した大名)を分断して、大名を統制・管理しました。

幕府要職となったのは譜代大名だが、領地は少なめだった

実際、江戸幕府の多くのポストは譜代大名、旗本、御家人に占められ、外様大名はほとんどつくことができませんでした。いっぽう領地を見ると、外様大名では前田家、伊達家など多くの領地を持つ者もいましたが、譜代大名は最大でも30万石に満たない領地しか与えませんでした。さらに、外様大名の領国は中央政権、つまり江戸から離れた地方、特に西国に割り当てています。

のちに第三代将軍・家光の頃、参勤交代の制度が取り入れられました。大名たちに実(経済力)を使わせて、軍備に回す余裕をなくさせたのです。こうした施策によって江戸幕府は長期安定政権となり、260年間という平和を築き上げていきました。

関ヶ原の戦いから14年後となる1614(慶長19)年から翌年にかけて、二度にわたり、大坂の陣(大坂の役)が起こります。家康と第二代将軍の秀忠を大将とした幕府軍20万と、豊臣秀頼を大将に戴く豊臣軍が激突したのです。これは、家康最後の合戦となりました。

「豊臣秀頼像」
「豊臣秀頼像」(画像=養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康は豊臣家を滅ぼそうと決めていたはずだが……

まず、方広寺鐘銘事件を契機に、大坂冬の陣が開戦します。これは、家康が秀頼にすすめて再興した方広寺(現・京都市)の鐘に刻まれた銘文「国家安康」「君臣豊楽」が「家康の名前を分断し、豊臣を君として楽しむ」の意味であると、徳川方からクレームをつけられた事件です。

この“言いがかり”からもわかるように、大坂の陣は幕府がしかけた戦争です。家康はどこかの段階で豊臣氏を滅ぼそうと決めていた、私はそう考えています。しかも、戦う前から勝利を確信していました。実際、家康は鎧もつけずに大坂城を攻囲したと伝わっています。

参陣する大名たちは恩賞を計算します。秀頼の領地は65万石あるとはいえ、関ヶ原の戦いのような天下分け目の戦いではなく、しかも徳川政権が固まりつつあるため、大きな加増は期待できそうにありません。命をかけて戦うのに恩賞は少ない。また、この戦いには大義がないと考えた大名もいるかもしれません。それでは、戦意は上がりません。

いっぽう、豊臣方では浪人が集結しました。その数、10万人。なかには真田信繁や長宗我部盛親のような武将もいましたが、多くは失業した武士たちで、しかも統一された指揮系統がなく、ばらばらに戦うだけでした。攻める側は士気が低く、守る側には指揮系統がない。これが、大坂の陣の実情です。

徳川軍の士気は低かったが、最新兵器の大砲が効力を発揮

戦闘の詳細には触れませんが、軍事革新の視点から、大砲の使用について触れておきます。大坂冬の陣で大坂城を完全包囲した幕府軍は、イギリスから輸入したカルバリン砲や国産の大砲を昼夜問わず、撃ち続けました。その1弾が大坂城の居間を直撃、淀殿の侍女が亡くなります。これにショックを受けた淀殿は、和議を受け入れたと言われています。

なお、カルバリン砲は14キログラムの弾丸を6300メートル飛ばしたそうです。火縄銃の登場で合戦の様相は大きく変わりました。この頃には、「大筒おおづつ」と呼ばれた大砲まで使われるようになっていたのです。当時は炸裂弾ではありませんから、被害はそれほどでもなかったでしょうが、心理的効果は大きかったと思われます。

日本の軍事は質・量共に、世界のトップクラスであったことは事実です。講和条件として大坂城の二の丸・三の丸の破却と堀の埋め立てが決まりました。家康と秀忠は大坂から離れています。しかし、豊臣側が浪人たちを解雇せず、軍事強化をはかっているとして、ふたたび合戦が始まります。大坂夏の陣です。

しかし、堀を埋め立てられて裸城となった大坂城は、もはや豊臣秀吉が築いた難攻不落の城からはほど遠く、落城。秀頼と淀殿、側近らは自害して豊臣氏は滅亡しました。翌年、家康も亡くなっています。

「大坂城炎上」1663年
「大坂城炎上」1663年(画像=ニューヨーク公共図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

関ヶ原から大坂冬の陣まで家康は何をしていたのか

私が解せないのは、関ヶ原の戦いから大坂冬の陣までの14年間です。方広寺鐘銘事件からも明らかなように、家康が豊臣氏を滅ぼそうとしたことは間違いありません。であるならば、なぜ14年間もかけた、あるいはかかったのでしょうか。

秀吉と比較すると、この長さが際立ちます。秀吉は1582年の本能寺の変から3年後に関白となり、5年後には九州を平定して豊臣姓を得ています。6年後には刀狩を実施し、8年後には小田原征伐で北条氏を降して全国の大名を従えました。

対して家康は関ヶ原の戦い後に諸大名を従え、圧倒的な軍事力を有したにもかかわらず、豊臣氏を滅ぼすまで14年間かかっています。これについて、私のなかで合理的な答えを導き出せていません。もちろん、豊臣の力が強大で攻撃できなかった、というようなことはまったく考えていませんが。大坂夏の陣が終わり、秀吉が重視した統治、つまり政治の時代に入りました。

秀吉は文官を優遇したが、家康は武勇ある者を優遇した

家康は、統治(政治)をどのように捉えていたのでしょうか。江戸幕府が軍事政権であることは前述した通りですが、家康は政治を軍事の下位に置きました。経済も同様です。このことは、家臣たちの待遇を見れば一目瞭然です。

家康の最側近であり参謀を務めたのが、本多正信です。正信は、家康から政治や軍事の最高機密や機微にわたる相談を受けていました。にもかかわらず、知行は2万2000石しか与えられていません。また、若手官僚のなかでも経済に明るく、徳川家の財務を担当した松平正綱は2万2000石でした。ちなみに、正綱の甥で養子になったのが、「知恵ちえ伊豆いず」こと松平信綱です。

対して、徳川四天王の本多忠勝はどうでしょう。忠勝は13歳の初陣以来、生涯50回以上の戦働きをした武断派です。三方ヶ原の戦いで奮戦する忠勝を、武田軍は「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」と称賛しました。「唐の頭」とは家康の兜につけられた中国産ヤクの毛、「平八」とは忠勝のことです。そんな忠勝に、家康は関東転封の際に10万石を与えています。

「紙本著色本多忠勝像」江戸時代初期
「紙本著色本多忠勝像」江戸時代初期(画像=良玄寺・千葉県立中央博物館大多喜城分館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

同じく、徳川四天王の井伊直政は、家康が浜松城にいた時に召し抱えられた、いわば新参者です。武勇を称えられた直政に、家康は関東転封の際に12万石という譜代大名で最高の知行を与えています。関ヶ原の戦い後には18万石に加増しています。

「ダブル本多」でも序列が高かったのは武断派の忠勝

これらを見ると、明らかに文治派が冷遇されていることがわかります。そもそも徳川四天王は武断派です。家臣団内での序列は石高で決まります。たとえば本多正信と本多忠勝では、序列は段違いに忠勝が上となります。これは家中での席次などにも反映されました。

豊臣秀吉は武断派よりも文治派を重用し、加藤清正のような軍事だけでなく行政能力にも長けた人材の登用を積極的に行ないました。家康とは正反対です。家康による武断派の重用、というより文治派への冷遇は、秀吉以前の時代に後戻りした印象を受けます。当時は政治のことを、「仕置き」と言っていました。

仕置きがきちんとできるのに評価されないのはなぜでしょうか。これは譜代大名と外様大名の関係にも同じことが言えますが、「花はやっても実はやらない」、つまり経済力がある者には権力を持たせず、権力を持つ者には経済力を与えない、ということなのでしょう。

江戸幕府はあくまで武士による軍事政権だった

家康にとって、政治は軍事がベースでした。領主の義務として領地をきちんと守ることを求めますが、それは領地を経営するということではなく、敵から領地を防衛するためです。徳川家に攻めてくる敵を撃退することが至上命令なのです。実際、江戸、京都、大坂など幕府にとっての重要な都市の周辺には、譜代大名や外様大名でも信頼が置ける者を配置しました。家康が求めた人材は、政治家や行政官僚ではなく軍政家でした。

家康は、鎌倉幕府編纂の歴史書『吾妻鏡』を読んでいたと言われています。鎌倉幕府は「武士の武士による武士のための政権」です。家康も、これを意識していたことは間違いありません。

家康が考えていた政治は、暮らしを豊かにして民衆を幸せにすることが目的ではありません。もちろん、人々の暮らしはしっかり守りますが、それは徴兵・徴用のための手段であって、敵が来襲してきた時にきちんと戦えるために万全な統治を行なう。それが家康の政治なのです。

狩野探幽画「徳川家康像」
狩野探幽画「徳川家康像」(画像=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

家康の幕府防衛構想には朝鮮出兵への反省があったか

本郷和人『天下人の軍事革新』(祥伝社新書)
本郷和人『天下人の軍事革新』(祥伝社新書)

関ヶ原の戦いから大坂の陣の期間までを実例としながら、徳川家康の幕府防衛ラインの構想について見ていきます。基本となるのは、次の2点です。

①江戸を含む関東と中部地方は譜代大名で固める
②娘や嫡孫など近い血縁者を重んじる(彼女らの婚家にも甘い)

家康は信長や秀吉と異なり、当時は僻地だった江戸で幕府を開きました。しかも関東地方と、自身が切り取った東海・甲信地方は譜代大名で固めています。このあたりに、家康の「江戸を防衛するぞ」という強固な意思が見て取れます。攻めより守り。これが家康政権の軍事思想なのです。朝鮮半島に出兵して大失敗した秀吉の方法への反省が込められているようにも思います。