秀吉は文官を優遇したが、家康は武勇ある者を優遇した
家康は、統治(政治)をどのように捉えていたのでしょうか。江戸幕府が軍事政権であることは前述した通りですが、家康は政治を軍事の下位に置きました。経済も同様です。このことは、家臣たちの待遇を見れば一目瞭然です。
家康の最側近であり参謀を務めたのが、本多正信です。正信は、家康から政治や軍事の最高機密や機微にわたる相談を受けていました。にもかかわらず、知行は2万2000石しか与えられていません。また、若手官僚のなかでも経済に明るく、徳川家の財務を担当した松平正綱は2万2000石でした。ちなみに、正綱の甥で養子になったのが、「知恵伊豆」こと松平信綱です。
対して、徳川四天王の本多忠勝はどうでしょう。忠勝は13歳の初陣以来、生涯50回以上の戦働きをした武断派です。三方ヶ原の戦いで奮戦する忠勝を、武田軍は「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」と称賛しました。「唐の頭」とは家康の兜につけられた中国産ヤクの毛、「平八」とは忠勝のことです。そんな忠勝に、家康は関東転封の際に10万石を与えています。
同じく、徳川四天王の井伊直政は、家康が浜松城にいた時に召し抱えられた、いわば新参者です。武勇を称えられた直政に、家康は関東転封の際に12万石という譜代大名で最高の知行を与えています。関ヶ原の戦い後には18万石に加増しています。
「ダブル本多」でも序列が高かったのは武断派の忠勝
これらを見ると、明らかに文治派が冷遇されていることがわかります。そもそも徳川四天王は武断派です。家臣団内での序列は石高で決まります。たとえば本多正信と本多忠勝では、序列は段違いに忠勝が上となります。これは家中での席次などにも反映されました。
豊臣秀吉は武断派よりも文治派を重用し、加藤清正のような軍事だけでなく行政能力にも長けた人材の登用を積極的に行ないました。家康とは正反対です。家康による武断派の重用、というより文治派への冷遇は、秀吉以前の時代に後戻りした印象を受けます。当時は政治のことを、「仕置き」と言っていました。
仕置きがきちんとできるのに評価されないのはなぜでしょうか。これは譜代大名と外様大名の関係にも同じことが言えますが、「花はやっても実はやらない」、つまり経済力がある者には権力を持たせず、権力を持つ者には経済力を与えない、ということなのでしょう。