「敗戦国日本」の苦しい戦争総括
1945年は政治的な配慮から「終戦の年」と呼ばれるが、正しくは敗戦の年である。日本は戦争に負けた。その後約80年、日本に原爆を落とした米国の安全保障の傘の下で守られ経済的繁栄を享受「させてもらう」中で敗戦の悲惨な記憶や米国に対する被害感情を曖昧に溶かし込み忘れていった日本は、いまやどれほどの真剣さで自らを敗戦国であると受け止められているだろうか。
国連の公用語は英語、フランス語、中国語、ロシア語、スペイン語、アラビア語の6カ国語。ドイツ語やイタリア語や日本語など、敗戦国の言語はひとつとして国連の公用語には採用されない。第2次世界大戦の戦勝国が「第2次世界大戦を防げなかった国際連盟の反省を踏まえて」組織した国際連合に、敗戦国の言語が公用語に採用される理由はない。
だが、日本が国際社会から裁きを受け自らの戦争犯罪を誠実に受け入れることと、あの後約80年、世界で二度と使われないほどの非人道的な戦争兵器で日本の民間人が焼かれ消滅させられたことを「自業自得である」などとされるのを唯々諾々と受け入れるのは全く別の問題だ。
「唯一の戦争被爆国」として主張すべきこと
核兵器の使用は、戦時の日本が(他の枢軸国――ナチスドイツやファシズム体制下のイタリアが欧州では絶対悪として遠慮や躊躇なく非難されるのと同様に)どれだけ「邪悪」であったと断罪されようとも、だからといって非人道的なレベルの犠牲を生むとあらかじめ知られていた核兵器の使用が「必然」や「自業自得」であるとは受け入れられない。日本は残酷すぎる非人道的兵器を実際に使用され、間違いなく地獄と呼べる光景を自分たちの国土で目撃した唯一の戦争被爆国として、そんなまっとうな主張をする資格がある。
しかし「属国」として戦後再生した日本では、国際社会に向けての、正確には米国に向けての、そんなまっとうな主張が政治的に回避される時代が長すぎた。
米国の占領下、影響下にあっての戦争総括は、当然のごとく、実に苦し紛れにゆがんだ道のりをたどった。米国の傘の下で原爆使用の歴史的事実や核兵器開発に厳然と異を唱える難しさ。「彼らの目の前で、彼らの言葉で」核兵器の悲惨を伝え毅然と抗議するという政治的作業が回避されてきたのは、安全保障の傘に庇護してもらう代償だったのだ。
「戦勝国」米国の核兵器投下を「敗戦国」日本が真正面から問い直すというそんな気まずさを避け、日本人は代わりに国内で、国内に向けて、戦争や核の悲劇を感情的、抒情的に舐め合うような「反戦教育」を続け、やがてそれらも「偏っている」として教育の現場から姿を消した。世代を継いで戦争の悲惨を語ることが、「戦争を正確に伝える」のではなく、「反戦」や「愛国」や「歴史観論争」というイデオロギーの道具にされてしまったことで、戦争はセンシティブで厄介な話題との印象を生み、戦争再話が教育の現場から消えていったのは否定できないだろう。