唐人医師というスピリチュアルな存在にすがった可能性

「信康事件」とも言われるこの家康による妻子殺害事件に関する史料が少ないのは、最初に述べたように徳川氏最大の汚点だからで、誰も本当のところは書き残していません。浜松の家康家臣団と岡崎にあった信康家臣団が対立し、そうしたなかで築山殿が甲斐の武田勝頼と内通し、徳川家内のクーデターを起こして信康を当主とする新しい徳川家で家の存続を図ろうとした、とか、そしてその動きが信長に察知され、家康は悩んだすえに妻子の処断を決めざるをえなかったなど、歴史家の間で現在でも、史料を読み解きながらの研究は進んでいます。

歌川芳虎 作「三河後風土記之内 天龍川御難戦之図」(部分)
歌川芳虎 作「三河後風土記之内 天龍川御難戦之図」(部分)出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)

甲斐から来た唐人医の滅敬と築山殿が密通したとか、またこれも甲斐から来た口寄せ巫女たちを通じて武田勝頼が築山殿を懐柔、武田と内通させたとか……史料はそんな逸話も語っています。私には真相はわかりませんが、心に弱い部分があると、そうしたスピリチュアルなものにすがってしまう傾向というのは誰にもあると思います。つけ入れられる隙があるというか、その結果、築山殿が疑われる立場に至ったのは事実でしょう。

築山殿は釈明のために浜松に召喚されるのですが、釈明などさせてもらえずに、家康の家臣ふたりによって道中で殺害されました。

「家族よりも家臣にこそ気を配らねばならぬ」と考えた家康

当時の徳川家は、東の今川支配から抜け出したとはいえ、今度は西の織田の先兵となって戦うことで三河、そして新たに手中にした遠江を守ることに必死な新興の戦国大名家でした。信玄はもういないとはいっても武田の脅威はまだ続いています。今川から見ればやはり新興の出来星できぼし大名ですが、今の同じ愛知県でも山間の三河(県東部)と違い、肥沃ひよくな野の広がる尾張(県西部)において中世から近世へと経済改革も進めながら勃興する織田は、徳川にとって逆らえない相手(同盟国)でした。

「あの人が偉くなって、歴史に名を残せば残すほど」と私は書きましたが、家臣たちに気を配り領国防衛に努める家康にとって、どの程度の将来が見えていたでしょう。織田信長がこの日本から消滅した本能寺の変後においても、征夷大将軍として260年余りの平和を日本にもたらせようとは夢にも思わなかったかもしれません。