プリンセス(王女)とプリンス(王子)
この数年間何かと話題になった秋篠宮家の眞子さん(当時)の結婚問題。お相手の小室圭さんは、二〇一〇年度「湘南江の島海の女王&海の王子コンテスト」で「海の王子」に選ばれたことがあるとか。「海の女王」と「海の王子」――これ、非対称ですよね。女王の対語は王であり、王子の対語は王女だからです。それなのにあえて「海の女王&海の王子」としたところに、王女と王子が真の意味での対語ではないことが表れています。
似たような例はほかにもあります。たとえば、フィギュアスケートの羽生結弦は「氷上のプリンス」といわれましたが、浅田真央は「氷上の女王」です。「氷上のプリンセス」とはいいません。
世界選手権で優勝した選手は「世界王者」「世界女王」と呼ばれますが、こちらが単なる称号なのに対して、「氷上のプリンス」や「氷上の女王」にはある種のイメージが伴います。
なぜか。そこには、プリンスとプリンセスの決定的な立ち位置の違いがあります。プリンスはひとりの自立した人間とみなされるいっぽう、プリンセスは庇護され、守られる存在だからです。
そうなると、トップに立った女性がプリンセスではしっくりこない、だから「女王」と呼ぶのではないでしょうか。そういう「女王」も「王」の派生語ですが。
ばあさんとじいさん
年を取ると人間、頑固になるといいます。「頑固」というと、きまって思い出すおじいさんがいます。
以前住んでいた町の駅前に三代続いているお茶屋さんがあり、わたしはこのお店でいつもコーヒーを買っていました。コーヒー豆を挽いてもらうときはいつも、細かくと頼んでいました。若主人のときは問題がなかったのですが、ご隠居、つまりたまたまおじいさんが店番をしているときは困りました。「それじゃ、コーヒーの味が台無しだ」といって頑として承知しない。そして、自分がおいしいと思う挽き方で挽いてよこしたのです。
はじめのうちは、こっちは客だ、好みにはいろいろある、自分の好みを押しつけるなんてけしからん、と腹を立てていましたが、そのうちしだいにこの頑固一徹なおじいさんに親しみを覚えるようになり、おじいさんが店番をしているときは、これも巡り合わせだと思って黙って受け取るようになりました。
さて、おばあさんのほうはどうか。やはり思い出す人がいます。
随分前のことですが、北ドイツのハンブルクで記念にちょっといいコートを買おうと思って、とある店に入ったときのこと。エレガントなコートに一目ぼれして店の女性に声をかけました。もうおばあさんといえる年代の人でした。
すると彼女は、そのコートを見て、大きく首を振ったのです。
「これはお客さまには早いですよ。こういう服はこれから先まだ十分着られます」
そういって、「これこそお客さまにぴったり」といって別のコートを持ってきました。見ると、学生の着るようなカジュアルな品でした。値段は先ほどの半分以下。わたしははじめのコートが気に入っていたので、やはりあっちを買いたいといいました。
ところが、この人、頑として譲らない。断固安い方を勧めるのです。その自信たっぷりな態度にちょっぴり尊敬の念を覚えたこともあって、結局、彼女の勧めるコートを買いました(あのときは、日本人は若く見えるのでわたしも実際より若く見えたのでは、などと思ったけれど、よく考えれば「この人には高級品は似合わない」と思われただけかも……)。
ところで、頑固ばあさんというと、外国人の話になったことに気づかれたでしょうか。そうなのです。日本人となると思い当たらないのです。そもそも、日本では頑固ばあさんは生まれにくいからです。
日本の男は自分が支配できるかわいい女が好き。そして、かわいい女からはけっして頑固ばあさんは生まれません。そういえば、いまをときめく女優さんがインタビューで「将来はかわいいおばあちゃんになりたい」っていってましたっけ。
自分を主張しようとする年取った女は、日本では「頑固ばあさん」ではなく、「意地悪ばあさん」になります。これにはわけがあります。頑固はすなわち信念の行きつく先だから――男は男らしく信念を曲げずに生きろ。まわりを気にするな。正攻法で行け。荒野をひとり行く孤独なヒーローは、いつの時代も男たちの憧れです。
かたや女は、いつだってまわりを気にしながら生きていかざるを得ません。ですから、自己主張しようとするときは、正攻法ではなく、目立たないように裏から手を回そうとすることが多くなります。で? 行きつく先は――意地悪。