※本稿は、平野卿子『女ことばってなんなのかしら? 「性別の美学」の日本語』(河出新書)の一部を再編集したものです。
何気なく使っていることばに潜む差別
日本語の女と男に関することばは、釣り合いが取れていないことが非常に多い。非対称といえば聞こえがいいですが、実態はそのほとんどが性差別なのです。
母語は文字通り吐く息のように使っているため、おや、と思うような表現があっても、そういうものだと思って流してしまいがちです。そういうわたし自身、女を意味することばにくらべて男を意味することばにはカッコいいものが多いとか、女偏の漢字の多くに芳しくない意味があるとか思いつつもやりすごしてきました。
いまさらことばを根本から変えることはできませんが、それでも、日ごろ何気なく使っていることばに潜む差別を知り、意識的に使うことには大きな意味があります。性差別を含むことばは無数にありますが、ここでは、身近なものをいくつか取り上げてみていきます。
女と男
「女」にくらべて「男」はプラスイメージを帯びることが実に多い。
たとえば、「男の中の男」とはいっても「女の中の女」とはいわない。ほかにも、「男一匹」「男が惚れる」「男が立つ」「男が廃る」「男になる」「男を上げる」などなど。ここに共通しているのは「男=立派な人間」のイメージです。
そうそう、箱根駅伝の「男だろ!」もありましたね。「俺を男にしてくれ」も同じ線上にあります。「わたしを女にしてください」? そんなことは普通いわないし、もしいったとしたら、違う意味にとられてしまう危険があります。
いっぽう、「女」はどうでしょう。「女々しい」や「女の腐ったよう」「女子ども」「女にしておくには惜しい」など、ろくなものがありません。「女だてらに」というのも「勇敢だ」と評価するより「女のくせに生意気な」のニュアンスを含むことのほうが多いですね。
少女と少年
<少年という言葉には爽やかさがあるけれど、少女という言葉には得体のしれないうさんくささがある。>
『僕はかぐや姫』の主人公裕生のことばです。少女と少年――これは対語ではありません。なぜ「少女」といいながら「少男」ではないのか。男の場合は「男の要素」ではなく単に「年が少ない」だけなのに、女の場合は「女の要素」が「少ない」という表現になっている。ヘンでしょう? これ。
男を表現するときには背後に「性を超えた人間性」があるのに対して、女の場合は「性」から逃れられない。裕生のいう「得体のしれないうさんくささ」は、こんなところにあるのかもしれません。
「王女」と「王子」にも同じことがいえます。
プリンセス(王女)とプリンス(王子)
この数年間何かと話題になった秋篠宮家の眞子さん(当時)の結婚問題。お相手の小室圭さんは、二〇一〇年度「湘南江の島海の女王&海の王子コンテスト」で「海の王子」に選ばれたことがあるとか。「海の女王」と「海の王子」――これ、非対称ですよね。女王の対語は王であり、王子の対語は王女だからです。それなのにあえて「海の女王&海の王子」としたところに、王女と王子が真の意味での対語ではないことが表れています。
似たような例はほかにもあります。たとえば、フィギュアスケートの羽生結弦は「氷上のプリンス」といわれましたが、浅田真央は「氷上の女王」です。「氷上のプリンセス」とはいいません。
世界選手権で優勝した選手は「世界王者」「世界女王」と呼ばれますが、こちらが単なる称号なのに対して、「氷上のプリンス」や「氷上の女王」にはある種のイメージが伴います。
なぜか。そこには、プリンスとプリンセスの決定的な立ち位置の違いがあります。プリンスはひとりの自立した人間とみなされるいっぽう、プリンセスは庇護され、守られる存在だからです。
そうなると、トップに立った女性がプリンセスではしっくりこない、だから「女王」と呼ぶのではないでしょうか。そういう「女王」も「王」の派生語ですが。
ばあさんとじいさん
年を取ると人間、頑固になるといいます。「頑固」というと、きまって思い出すおじいさんがいます。
以前住んでいた町の駅前に三代続いているお茶屋さんがあり、わたしはこのお店でいつもコーヒーを買っていました。コーヒー豆を挽いてもらうときはいつも、細かくと頼んでいました。若主人のときは問題がなかったのですが、ご隠居、つまりたまたまおじいさんが店番をしているときは困りました。「それじゃ、コーヒーの味が台無しだ」といって頑として承知しない。そして、自分がおいしいと思う挽き方で挽いてよこしたのです。
はじめのうちは、こっちは客だ、好みにはいろいろある、自分の好みを押しつけるなんてけしからん、と腹を立てていましたが、そのうちしだいにこの頑固一徹なおじいさんに親しみを覚えるようになり、おじいさんが店番をしているときは、これも巡り合わせだと思って黙って受け取るようになりました。
さて、おばあさんのほうはどうか。やはり思い出す人がいます。
随分前のことですが、北ドイツのハンブルクで記念にちょっといいコートを買おうと思って、とある店に入ったときのこと。エレガントなコートに一目ぼれして店の女性に声をかけました。もうおばあさんといえる年代の人でした。
すると彼女は、そのコートを見て、大きく首を振ったのです。
「これはお客さまには早いですよ。こういう服はこれから先まだ十分着られます」
そういって、「これこそお客さまにぴったり」といって別のコートを持ってきました。見ると、学生の着るようなカジュアルな品でした。値段は先ほどの半分以下。わたしははじめのコートが気に入っていたので、やはりあっちを買いたいといいました。
ところが、この人、頑として譲らない。断固安い方を勧めるのです。その自信たっぷりな態度にちょっぴり尊敬の念を覚えたこともあって、結局、彼女の勧めるコートを買いました(あのときは、日本人は若く見えるのでわたしも実際より若く見えたのでは、などと思ったけれど、よく考えれば「この人には高級品は似合わない」と思われただけかも……)。
ところで、頑固ばあさんというと、外国人の話になったことに気づかれたでしょうか。そうなのです。日本人となると思い当たらないのです。そもそも、日本では頑固ばあさんは生まれにくいからです。
日本の男は自分が支配できるかわいい女が好き。そして、かわいい女からはけっして頑固ばあさんは生まれません。そういえば、いまをときめく女優さんがインタビューで「将来はかわいいおばあちゃんになりたい」っていってましたっけ。
自分を主張しようとする年取った女は、日本では「頑固ばあさん」ではなく、「意地悪ばあさん」になります。これにはわけがあります。頑固はすなわち信念の行きつく先だから――男は男らしく信念を曲げずに生きろ。まわりを気にするな。正攻法で行け。荒野をひとり行く孤独なヒーローは、いつの時代も男たちの憧れです。
かたや女は、いつだってまわりを気にしながら生きていかざるを得ません。ですから、自己主張しようとするときは、正攻法ではなく、目立たないように裏から手を回そうとすることが多くなります。で? 行きつく先は――意地悪。
福山雅治『家族になろうよ』はいつの時代の話か
ところで、頑固ばあさんはいませんが、おせっかいばあさんはいます。この両者、ちょっと見ると似ているようですが、やはり違うのです。頑固ばあさんは自己の信念を貫こうとしますが、おせっかいばあさんのよりどころは世間の常識だからです。そんな格好で出かけたらみっともない、そんなことをいったら生意気だと思われるよ……。これらは自己の信念ではなく、世間の、多くの場合女らしさの規範に基づくものだからです。
意地悪ばあさんといえば、長谷川町子の人気漫画がありました。
主人公(お石さん)の意地悪は半端ではありません。よくもここまでやるなと顰蹙を買うようなことばかり。しかしこの漫画は大変な人気を博しました。
そのわけは、どんなに威勢がよかろうと、意地悪だろうと、お石さんはやはり「老い」と「女」という、絶対的な弱さを抱えた存在だからです。ちょうど人気アニメの『トムとジェリー』で、弱者であるねずみのジェリーが強者である猫のトムをいくらひどい目にあわせても、見ている方はどこか痛快さを感じる、その辺の心理と通底するのかもしれません。
つくづく思うのですが、意地悪というのは、弱者のもの。意地悪は女のほうに多いといわれますが、もしそういう傾向があったとしても、それは本質的に女のほうが意地悪なのではありません。置かれた立場からそうなったにすぎないのです。
そういったからといって男が意地悪をしないということではありません。女のそれより少ないかもしれませんが、その分たちが悪いことが多いですね、ハイ(ついでながら、「ばあば」「じいじ」と違い、「ばばあ」「じじい」の印象が悪いのは、日本語には「長音+短音」を好み、「短音+長音」を嫌う性質があるため)。
結婚情報誌『ゼクシィ』のCMソング『家族になろうよ』で、福山雅治はあらまほしき家族の姿を歌います。
ふたりの未来の姿は、「おじいちゃんみたいに無口な強さ」と「おばあちゃんみたいに可愛い笑顔」で、ふたりの子どもは、「あなたの笑顔によく似た男の子」と「わたしとおなじ泣き虫な女の子」だって。
いつの時代の話かっていいたくなりますが、二〇二〇年の紅白歌合戦で歌われたことでわかるように、『家族になろうよ』は、現在でも大変人気のある曲です。ネットでも、感動した、美しい家族の姿に号泣したとの書き込みが続々。うーむ……。