「こんなふうに渋谷の街を破壊するのか」という意外性
『紺青の拳』で船型の展望デッキが落ちていくプロセスも、『業火の向日葵』で肉体がコンクリートの壁に勝って破砕される虚構的なリアリティーも、『ハロウィンの花嫁』で柱や看板など街の表面にあるものが壊れていく経過や表情も、破壊のスペクタクルとして非常に優秀です。
キャラクターやストーリーを楽しみにするだけでなく、目を惹く見世物的なスペクタクルの一瞬を味わうというのも悪い鑑賞法ではありません。今年はどんな〈街を破壊する想像力〉が働いていて、その悲劇を防ぐプロセスで、どんな破壊のスペクタクルが観られるのか、と考えてみてください。とても力の入った描写が観られるはずです。
アニメの中で現実の風景が美しい廃墟になる感覚を味わう
これは、テロの恐怖を伝える映像的スペクタクルであると同時に、廃墟を美的に快く思う人の感覚に通じるものが立ち現れている映像的スペクタクルであるように思われます(廃墟については、『フィルカル』7(2), 2022の「特集 遺跡と廃墟の美学」を参照してみてください。とても面白いです)。つまり、現実の風景をフィクショナルに破壊することで、今ある光景を廃墟としても捉える知覚をコナン映画は与えてくれるのです。
おそらくここで思い出し、コナン映画に重ねるべきは、マーベル作品です。マーベルでは、「アイアンマン」シリーズや「スパイダーマン」シリーズなどの都市を舞台にした連作を中心に、〈破壊や悲劇を防ごうとするプロセスで生じる破壊〉というモチーフが登場します。
マーベルも、コナンも、どちらも長年にわたって制作されているだけでなく、〈街や大建築を破壊する想像力〉に満ちており、〈悲劇を防ぐプロセスで生じる破壊〉が登場します。さまざまな属性を越えて人気を勝ちえるような大衆映画の一つの最適解がここにあるのかもしれません。いずれにせよ、そこで描かれる丁寧な破壊描写が、やはり強い印象を視聴者に与えているのは間違いありません。
コナン映画の破壊の描写をみていると、都市や建築をよく観察しているように私には感じられます。もちろん、現実の通りではなく、アニメの文法に適合する仕方で誇張され、変更されてはいますが。だから、〈都市や建築(の壊され方)〉に注目してコナン映画を観ると、映画の楽しみ方が増えるだけでなく、日常の都市や建築の見方まで変わり、ひいては、日ごろの目線や歩き方も変わってくるのではないか。そんなことを考えています。
1990年、兵庫県に生まれる。哲学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。単著に『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)などがある。