「問題がなかったなどと考えているわけではございません」

4月21日に、ジャニーズ事務所がジュリー氏の名義でスポンサーやテレビ局など、取引先企業へ事務所の対応を釈明する文書を送っていたことが明らかとなった。その中には印象的な一文がある。「私たちは本件につき、問題がなかったなどと考えているわけではございません」。心境を正直すぎるほど正直に言語化したフレーズだろう。当惑や後悔、怒りを滲ませ、絞り出したような言葉だとも感じられる。

ジャニー氏の行為は、業界だけではなく、おそらくファミリーにとってもアンタッチャブルだったのではないか。それほどに問題はあまりに罪深くおぞましく、気づいても目を背けて、懸命に見なかったことにしておきたいものだったのだろう。

ジャニーズは一つの「文化」であり、タレントたちの数、知名度、巻き込む業界や企業、ファンたちと、問題の公共性が高すぎる。もはや手をつけられないほどに深刻な問題を見つけたとき、人間は反射的にその蓋をそっと閉めてしまうものだろう。おそらく問題から最も近い外周で長年一緒にいた彼らが、“問題がなかったなどと考えているわけがない”のだ。

「聞き取り調査」どこまで覚悟を決めているのか

それゆえに、2019年のジャニー氏の他界は、ジャニーズ事務所が長年抱えてきた問題を「なかったこと」のままきれいに葬ることができたと目配せされていたのではないか。パンドラの箱ごと埋葬できたと思ったのではないか。よかった、きれいに終わらせることができた、とホッとしていたのは、事務所だけではない、事情をもちろん了解していた芸能界や音楽業界、マスコミの人々も、同様だったのだろう。

釈明文書にあるという「社員や所属タレントを対象に聞き取り調査を行った」との内容。それは一度埋めた「墓を掘り返す」行為である。先ほど述べたとおり、ジュリー氏は「社長として、肉親として、女性として」どこまで掘り返す覚悟を決めているのだろうか。あるいは死者の亡骸を晒すことなく穏当な調査結果の報告にとどめ、今となっては唯一の近親者でありビジネスの継承者であり、まさに「責任の所在」として自分が職を辞して終わり、とするのではないかとも囁かれている。

社長が首を差し出して「責任」を取るという形さえ整えば、日本社会はまたホッとして黙り、一度暴かれかけた墓はまた元通り埋められてしまうのか。それとも、文化論的にもジェンダー的にも商習慣的にも、まさに日本全体が抱える倫理的「コンプライアンス」問題の本質そのものとして、社会を大きく巻き込んだ患部の膿を出し切るのか。

日本社会がパンドラの箱をどう扱うのかを、国内のショービジネス界だけではない、海外も注視している。

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。