納得できる答えをくれない学会のおとなたちにもやもや

日曜日になると、少年部という集まりに連れて行かれて、時間を取られる。午前中だけだったので、そんなに長時間を潰されたということでもないんですが、とても嫌でした。学年があがって、集まりでおとなたちが話していることに反論すると、すべて宗教用語で丸めこまれるのはおかしいと思っていました。創価学会のいわゆるご本尊様は紙なんですが、私が「ただの紙じゃないんですか?」「なんで紙に力があるんですか?」と質問したら、「うっ」とみんな言葉に詰まったあとで、「普通の紙とお金は違いますよね。紙幣は違いますよね。それと同じようなことです」と返答するわけです。ちゃんとした答えをくれないことに、もやもやしました。

私の中にも、いまだに罰があたるという考えは残ってしまっているんですね。アダルトチルドレン、つまり親子関係がうまくいっていない機能不全家庭で育った人の周囲では、親から逃げろという原則が流通していますが、宗教が関わっていると親から逃げるのも大変だし、親や教団との関係を切って、家族としての交流は続けることもできない。親と自分という一対一の関係だけではなくて、背後に教団があるから何100万人対1ということになる。自分の心のうちにも罪とか罰とかの考えを取りこんでしまっているから、自分の人生を立てなおすのに、ものすごい余計な力を使わなくてはいけない。宗教2世は大変なことだらけです。

創価学会「広宣流布大誓堂」外観
創価学会「広宣流布大誓堂」外観 (写真=Sinhako/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

父との不和もあり母は1日中泣いて暮らすように

母が言っていたことは、「悪いことをするな」とか、言葉のうえではすごく良いことを言っていたのですが、私はそれに縛られすぎてしまって、過剰に善人になろうとしてしまっていたので、生きていくうえでは、つらかったなと思います。とはいえ、いろいろな呪縛がかなり解けたいまでは、やはり悪人よりは善人でいようかなっていうふうには思いますし、差別的なことを教えこまれなかったのは良かったと思います。

母自身も、私たちに言い聞かせる内容のようなすばらしい人であろうと努力していました。でも、父の麻雀仲間に対して、非常に怒ったり嫌ったりしているのは、子どもの私にも伝わってきたんです。でもそれを言葉にしないから、母は結局、私が小学校高学年ぐらいから毎日毎日、ほんとうに24時間中で20時間ぐらいは泣いているような人になってしまいました。