流行り言葉に限定されない多様性を育てるには

では、「ガチャ」という比喩表現に危うさがあるとすれば、私たちは自分のことをどう語ればいいのでしょうか。最後に脇道に逸れて、ボキャブラリーを育てることの意義について考えてみたいと思います。

私の共著書『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる 答えを急がず立ち止まる力』(さくら舎)の中で、哲学者の朱喜哲さんは「言葉に乗っ取られる」経験について話しており、これは手がかりになります。

「金づちしか持っていないと、すべてが釘に見える」という言葉がありますが、それと同じように、ある言葉遣いの比重が自分の中で大きくなりすぎてしまうと、大抵のことをその語彙ごいで理解・表現し、その考えに則って人や世界と関わることになりかねません。それが「言葉に乗っ取られる」ことです。

私たちの生活には、「言葉に乗っ取られる」経験があちこちにあります。「それってあなたの感想ですよね」などの論破につながるタイプの言葉を多用していると、他人の話を取るに足らないノイズとして扱い、黙らせることが習慣化してしまうことがありうるように。

他にも、「すべては努力の問題だ」「配られたカードで勝負しないといけない」「置かれた場所で咲きなさい」といったタイプの言葉遣いで物事を考えがちになると、ほとんどすべての問題や状況を「自己責任論」の視点で考えがちになります。

つい使いがちな「言葉」に乗っ取られないように

これと同じように、自分の生きている境遇を変えがたい社会に生きている私たちは、偶然や運が関わっているとみなすと、「ああガチャに外れた、ツイていなんだ」と、ついつい「ガチャ」の比喩を使ってしまいがちです。あまりに気軽に使ってしまうため、その言葉が私たちをどこに連れていくのかに無頓着なのです。

その文脈で言えば、私たちが無頓着だった「ガチャ」という比喩の持つ含みを検討し、それに乗っ取られないための手がかりをこの文章は語ってきたことになります。「(親)ガチャ」に乗っ取られてしまうと、出口のない苦痛、周囲への呪い、自己責任論がもたらされかねません。

運と努力が複雑に絡まり合い、単純な「自己責任論」には回収できない日々を私たちは生きています。それにもかかわらず日々の私たちは、手元に「金づち」以外ないかのように、自分の暮らしや境遇を単純化して語りがちです。「金づち以外の道具」(=ガチャ以外のたとえ)を用意する必要もあるように思います。

「努力」を強調することで見えなくなるもの、「ガチャ」の比喩からは見えなくなるものを見るために、もう少し多様な角度から生活や境遇を語ること。そういう言葉の多様性が重要です。自分の経験を言語化する手がかりは、もっと多様であった方がいい。「ガチャ」という言葉の流行によって私たちが直面せざるをえないのは、実のところ、言葉の多様性をどう育てていくかということなのです(※9)

(※9)言葉遣いの多様性については次の記事も参照のこと。「ELSIから考える企業が持つべき倫理と言葉。朱喜哲氏インタビュー。」Less is More.by info Mart Corporation

谷川 嘉浩(たにがわ・よしひろ)
哲学者、京都市立芸術大学 講師

1990年、兵庫県に生まれる。哲学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。単著に『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)などがある。