「親ガチャ」という言葉は2021年頃から流行
「親ガチャ」は、自分の親などの「生まれ」からくる不遇は「運」の問題であり、自分の力ではどうにもならないものとの出会いについて語る言葉で、しばしばその出会いの運の悪かったことを示すために使われます。ソーシャルゲームの「ガチャ」というくじ引きシステムが比喩として用いられています。
この言葉自体は2010年代中頃には既にSNSで流通していたのですが、局所的な流行を越えて広まったのは2021年です。この文章が掲載されているプレジデントオンラインに、「親ガチャ」という言葉が登場する記事が初めて公開されたのも2021年でした。最初は立て続けに使われますが、2022年以降もコンスタントに「親ガチャ」という言葉が使われた記事が公開されています。
「親ガチャ」という言葉が日常の言葉遣いになるにつれて、目立った二つの批判がなされるようになりました。「結局は個人の努力の問題でしょう」という自己責任論的な批判、それから、「親としては悲しい」「責められているみたいだ」という主に親目線での批判です。それぞれ、〈自己責任論での批判〉と〈親目線での批判〉と呼ぶことにしましょう。以降では、なぜどちらの「親ガチャ」批判も安易なのかを示していきます。
個人では変えられない不均衡としての「親」
先日、「『難関大学合格は運なのか努力なのか』哲学研究者が考える大学共通テストで“親ガチャ問題”出題の意図」という記事でも指摘した通り、第一の〈自己責任論での批判〉は筋が通っていません。
様々な統計や調査で確認されている通り、家庭環境が子どもに与える影響はあり、そしてその影響力は非常に大きいものです。それゆえ、誰かの社会的成功の原因を、個人の努力“だけ”の問題であるかのように扱い、運の要素を軽視することはできません(※1)。「運」(=個人では統制できない)要素は現実にあり、それは決して些細なものではないのです。
(※1)家庭環境という自分では変えられない要因(=運)が果たす役割を、かなり素朴な形で強調する議論としては、次の記事。「『親ガチャという概念は正しい』アメリカ人経済学者が“人生の宝くじ”を否定しない理由 生まれも育ちも、親の影響を受ける」
14%の子どもが世帯所得127万円以下の家庭で育つ
努力や意志が大切でないわけではありません。それはとても大事であり、尊重されるべきものです。それでも、運の要素は無視できないのです。厚生労働省の調査によると(※2)、相対的貧困率(世帯収入が127万円以下)は15.7%であり、人口の約6人に1人が貧困ライン以下で暮らしています。また、子どもの貧困率は14.0%で、17歳以下の子ども全体で14%(約7人に1人)が、127万円以下の世帯所得の下で暮らしています。
貧困をはじめとする格差の問題は、学校の勉強であれ、その他の文化的・身体的な訓練であれ、学習や競争のスタート地点が、子どもによって大幅に違っています。どんな家庭環境に生まれるかという自分では統制できない要素(=運)が、大きな影響力を持っているのです。
「努力次第」という正論が問題を見えなくする
しかし世間は、「すべては意志や努力次第だ」「認識を変えて行動すれば世界は変わる」といった考えを「正論」として押しつけ、「運」の問題を見えなくさせています。それによって、「競争によって公平さが確保されている」「競争に勝ち抜くことで、私の価値は後世に評価された」といった感覚が広がり、競争の成功者が矜持や驕りを、成功しなかった人たちが恥や憤りを感じてしまうことになります(こうした論点は、先ほど紹介した記事でも掘り下げましたが、「公正世界仮説」や「メリトクラシー」などの言葉で調べれば、より詳しくわかるはずです)。
「親ガチャ」に対して、「でも配られたカードで頑張れよ」「結局は努力と意志の問題だ」と切り返すことは、こうした誤った「正論」によって、運要素を見えなくさせてしまいます。それは、問題ない状況にいる人間が、不遇を当事者に飲み込ませる欺瞞のある言葉遣いです。それに、「結局は自業自得だ」と問題を自己責任化することで、貧困や虐待などの家庭環境の課題に社会で取り組もうという機運を削いでしまいかねません。
(※2)「2019年 国民生活基礎調査の概況」
「親ガチャ」という言葉選びに潜む「優しさ」
それでは、第二の〈親目線での批判〉についてはどうでしょうか。「親ガチャ」という言葉が、親を傷つけうることは否定できません。しかし、この言葉がどういう状況で発せられているかを知れば見え方が変わってくるはずです。
そもそも、「親ガチャ」が生まれた背景には、貧困や虐待という過酷な状況があります。社会学者の土井隆義さんは、ツイートでの「親ガチャ」という言葉の使われ方を分析した結果、「親ガチャ」という言葉が、親を責めるために使われていないことを強調しています(※3)。というのも、そもそもこの言葉は、自分が虐待や貧困で苦しんでいるという状況を、「生きづらさをポップに言い換えるための言葉だった」からです(※4)。
つまり、ソーシャルゲームの「ガチャ」のニュアンスで冗談めかした装いを付けることで初めて、自分の苦境について言葉にし、他者にシェアできるといった事情が、この言葉が生まれた背景にはあるということです。
子どもが自分の苦境を「ガチャ」と言い換えた
この指摘を聞いて私が最初に思ったのは、「『親ガチャ』というと、親がかわいそうだ」と訳知り顔で説教する人は、その言葉を使ってしまう子どもが、どんな状況で、どういう事情を抱えながら、その言葉遣いを選んでしまうのか具体的に想像したり、観察したりするつもりがないのではないか、ということでした。
この言葉選びが適切か、好ましいかどうか以前の問題として、その言葉は子どものどんなニーズから生まれ、具体的にはどんな風に使われているのかを知るという責任が大人の側にはあるのではないでしょうか。
(※3)2015年頃にブームとして認識された「毒親」という言葉は、明確に親を責める言葉として導入されています。この言葉については、1990年代に流行した「アダルトチルドレン」という言葉も同様の問題を取り扱う言葉だったと指摘しながら、「毒親」という言葉に取って代わられることで、問題がより善悪二元論的に単純化されることを危惧する論考もあります。斎藤学「毒親と子どもたち」『みらい』vol.2, 日立財団Webマガジン
(※4)読売新聞オンライン「『親ガチャ』は『優しい言葉』か…1万8232ツイートを分析して見えた『ネットの気分』」
相手に重たい気分を引き受けさせないという配慮
若者たちの間で「親ガチャ」という言葉が果たしている役割についての土井さんの説明を私なりにまとめると、次の通りです。
虐待や貧困に苦しんでいる状況をストレートに言葉にすると、相手に引かれてしまったり、重たい気分を引き受けさせたりすることになりかねない。でも、「親ガチャに外れた」と軽い装いで伝えることで、相手に伝えやすいだけでなく、自分自身も「この境遇は生まれのせいだ」と自己責任による過剰な責め苦を内面化せずにすむという効果がある。
「親ガチャ」は確かに親には優しい言葉ではありません。しかし、身の回りの友人たちへの配慮であり、その友人たちにさえ明かしづらいプライベートを、秘密にするのではなく、ほんの少し見せて感情の棚卸しをしたいというニーズから生まれた言葉なのです。このことは、この言葉に対する評価に関わらず、知っておいていい事実です。
格差がますます広がっているため、自分の力で境遇を変えることが難しい時代なのに、その結果は「自己責任」として引き受けさせられる。この閉塞感を表現するのに、「ガチャ」という軽さのある言葉を若年層は選んでいます。
こうした状況について、土井さんは、若者たちが「絶望すらしていない、こういうものだよね、と冷めた目で見ている」とコメントしています(※5)。「ガチャ」という自分を嘲笑うかのような言葉遣いには、宿命を背負った人間のような諦念(冷めた目)があるということです。
「親ガチャ」という言葉は自分をさらに苦しませかねない
「親ガチャ」という言葉を用いてコミュニケーションをしている若者たちの背後にある苦痛を軽視したり、抱えている事情や感情を無視したりする資格は誰にもありません。とはいえ、自分の苦境や閉塞感を茶化すようにしてしか言葉にできず、人にも見せられないことは望ましいとは言えません。「親ガチャ」という言葉が、それを使う人をさらに苦しめかねないからです。その理由を二つ挙げておきます。
まず、その言葉を口にしている自分や、自分の大切な人が「親」になった場合に、その言葉は自分に向け直されかねないこと。たとえコミュニケーションの便宜のために使われた言葉でも、「親ガチャ」という言葉が持つ「含み」は、親に対して棘となるのは確かです。この棘は、口にした自分だけでなく、その言葉を聞いた友人や知人に残り、自分や周囲の人が「親」の役割を担った際に苦悩の原因になるということがありえます。
(※5)引用は前掲記事ですが、次の文献でも同様の議論がなされています。土井隆義『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』岩波ブックレット, 2019
ガチャという冷笑とともに生きるのはマイナス面も
さらに、シニシズム(冷笑)の問題があります。重大な問題を茶化すことに慣れてしまうと、現状追認的になったり、問題をまともに取り扱うことを避けたりしかねないということです(※6)。「冷めた目」して皮肉や冷笑とともに生きることで状況から自分が切り離されたような感覚になるので、気持ちは一時的に楽になります。しかし、そのことが問題から逃げたり、問題を解決したりすることに対して消極的になったり、脱出や解決を図る他人や自分を否定的に見たりする態度につながることがしばしばあります。
「親ガチャ」という言葉を習慣的に使うと、ここで述べたような苦痛を抱えてしまうことにつながりかねません。従って、この言葉は、苦しみや不遇を表現する言葉としては避けた方がよく、苦痛を他者に伝える「ツール」としては望ましいとは言えない。私はそう考えています。
生まれるときに「親ガチャ」を回すことを選んでいない
哲学者の戸谷洋志さんは、私が上に述べたのとは違う理由で「親ガチャ」という言葉の使用に反対しています。単純な切り口から重要な論点を引き出していて興味深い議論です(※7)。
戸谷さんは、「ガチャ」と「誕生」が偶然性を帯びるという点では似ていても、無視できない違いがあると指摘しています。ガチャには、「私」という主体がガチャを回す選択をするという要素があるのに対して、誕生では、子どもは「親ガチャ」を回す選択をしていません。
そもそも、誕生以前に「私」は存在しないのだから「ガチャを回す」ことはできない。すごく当たり前のことですね。受け入れやすい前提です。しかし、哲学者の本領が発揮されるのはこの先です。この前提を受け入れると、自然と受け入れさせられてしまう別の論点について、戸谷さんは注意を向けています。
そもそも、現代社会の常識からすると、「私」は、自分の主体的な行為の帰結に対して責任を持つものです。これと「ガチャを回す選択をしたか否か」という論点を組み合わせると、私たちはガチャを回す選択をしたなら、私たちはその結果に責任を持たねばなりません。つまり、「親ガチャ」という言葉に隠れた発想を突き詰めると、子どもは自分の親を「引き当てた」ことに責任を持たねばならなくなるのです。
(※6)この論点については、次の本の第四章で扱いました。谷川嘉浩『鶴見俊輔の言葉と倫理 想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)
(※7)戸谷洋志「『親ガチャ』に関する覚書」
「引き当てたなら自己責任で」という発想につながる
もちろん、子どもは生まれてくるときに「親ガチャ」を回す選択をしていないので、私たちは自分の親を引き当てたことへの責任を負う必要はありません。しかし、「親ガチャ」という言葉を使う限り、ソーシャルゲームの「ガチャ」を回したなら、自分が引き当てたものを自業自得として受け入れなければならないのと同じことが「誕生」について当てはまってしまいます。
「ガチャ」の発想で自分の境遇について語ることは、知らず知らずのうちに自分を自己責任論的に語ることにつながっている。つまり、自分の親に苦しめられている人が苦しみを語ろうとして、自分をさらに苦しめることになりかねないわけです。こうした理由から、戸谷さんは「親ガチャ」という言葉の使用に懐疑的な立場を採っています。
なんにでも「ガチャ」の比喩が行き渡った時代
実のところ、「ガチャ」という言葉は、「顔ガチャ」「隣人ガチャ」「会社ガチャ」「上司ガチャ」など運や偶然性の関わる事柄ならなんにでも当てはめられるようになっています。他にも、小説において「ガチャ」的な設定が用いられることも珍しくなくなり、KADOKAWAが運営する小説投稿サイト「カクヨム」には、「恋愛」や「魔法使い」などのいかにもありそうなタグと並んで「ガチャ」というタグがあります。もちろん、「恋愛」や「魔法使い」ほど多くはありませんが、記事執筆時点で184作品が登録されています。
こうした多用ぶりは、いかに「ガチャ」という言葉が現代の言語感覚に馴染んでいるかを教えてくれます。自分の力で境遇を変えることが難しい時代なのに、その責任を引き受けさせられる現代の閉塞感を、茶化すようにしてどうにか言語化し、他者と共有することができる。「ガチャ」にはそういう機能があります。哲学者の古田徹也さんは、こうした状況を「『ガチャ』の比喩が行き渡った所」と表現しています(※8)。
しかし、偶然の要素があるからといって、何でも「ガチャ」の言葉でくるんでいると危ういのも確かです。「親ガチャ」がまさにそうです。「親ガチャ」という軽い表現でくるむことで、自分の苦しい境遇を茶化して扱いやすくすることのメリットは否定できませんが、それでも、この表現はいくつかの意味で自分を苦しくさせかねません。
(※8)古田徹也『いつもの言葉を哲学する』朝日新書, 2021, p.31
流行り言葉に限定されない多様性を育てるには
では、「ガチャ」という比喩表現に危うさがあるとすれば、私たちは自分のことをどう語ればいいのでしょうか。最後に脇道に逸れて、ボキャブラリーを育てることの意義について考えてみたいと思います。
私の共著書『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる 答えを急がず立ち止まる力』(さくら舎)の中で、哲学者の朱喜哲さんは「言葉に乗っ取られる」経験について話しており、これは手がかりになります。
「金づちしか持っていないと、すべてが釘に見える」という言葉がありますが、それと同じように、ある言葉遣いの比重が自分の中で大きくなりすぎてしまうと、大抵のことをその語彙で理解・表現し、その考えに則って人や世界と関わることになりかねません。それが「言葉に乗っ取られる」ことです。
私たちの生活には、「言葉に乗っ取られる」経験があちこちにあります。「それってあなたの感想ですよね」などの論破につながるタイプの言葉を多用していると、他人の話を取るに足らないノイズとして扱い、黙らせることが習慣化してしまうことがありうるように。
他にも、「すべては努力の問題だ」「配られたカードで勝負しないといけない」「置かれた場所で咲きなさい」といったタイプの言葉遣いで物事を考えがちになると、ほとんどすべての問題や状況を「自己責任論」の視点で考えがちになります。
つい使いがちな「言葉」に乗っ取られないように
これと同じように、自分の生きている境遇を変えがたい社会に生きている私たちは、偶然や運が関わっているとみなすと、「ああガチャに外れた、ツイていなんだ」と、ついつい「ガチャ」の比喩を使ってしまいがちです。あまりに気軽に使ってしまうため、その言葉が私たちをどこに連れていくのかに無頓着なのです。
その文脈で言えば、私たちが無頓着だった「ガチャ」という比喩の持つ含みを検討し、それに乗っ取られないための手がかりをこの文章は語ってきたことになります。「(親)ガチャ」に乗っ取られてしまうと、出口のない苦痛、周囲への呪い、自己責任論がもたらされかねません。
運と努力が複雑に絡まり合い、単純な「自己責任論」には回収できない日々を私たちは生きています。それにもかかわらず日々の私たちは、手元に「金づち」以外ないかのように、自分の暮らしや境遇を単純化して語りがちです。「金づち以外の道具」(=ガチャ以外のたとえ)を用意する必要もあるように思います。
「努力」を強調することで見えなくなるもの、「ガチャ」の比喩からは見えなくなるものを見るために、もう少し多様な角度から生活や境遇を語ること。そういう言葉の多様性が重要です。自分の経験を言語化する手がかりは、もっと多様であった方がいい。「ガチャ」という言葉の流行によって私たちが直面せざるをえないのは、実のところ、言葉の多様性をどう育てていくかということなのです(※9)。
(※9)言葉遣いの多様性については次の記事も参照のこと。「ELSIから考える企業が持つべき倫理と言葉。朱喜哲氏インタビュー。」Less is More.by info Mart Corporation