「結婚して幸せになった人なんて誰もいない」

ブラザーの仕事は楽しくて仕方なかったのに、なぜか熊谷さんは再び呉服店の中で編む仕事に戻っている。

経営者の伯母夫婦の長男(熊谷さんの従兄)が大学を卒業して丁稚奉公を終えると家業を継ぐことになり、配偶者と一緒に店を盛り上げていた。編物の依頼も多くなって、熊谷さんは店を手伝わざるを得なくなったのだ。

「みんな忙しかったから、いいも悪いもありませんでしたよね」

いいも悪いもなく店の仕事に戻りはしたものの、どうしても嫌なことがひとつだけあった。それは結婚だ。周囲は結婚しろ結婚しろの大合唱だったが、どうしても結婚だけは嫌だった。それには深い理由があった。

熊谷さんの父親は、戦争に行って体を壊して復員してきた。体調は改善せず、復員後2年ほどして亡くなってしまったが、亡くなった翌月に熊谷さんの弟(長男)が生まれている。つまり熊谷さんの母親は、夫の実家にいながら「父なし子」を育てることになったわけだ。

「父は長男だったんですが、父の弟たちがみんな食べていけなくて実家に身を寄せてきたんです。母は子どもを3人抱えてどうのこうのって言われて、結局、独身だった父の弟と結婚させられることになった。それで下の弟が生まれたんです。昔はそういうこと多かったけれど、なんでそんなことをするんだろうってつくづく思いました。結婚して幸せになった人なんて誰もいない気がして、だから、私はひとりで生きて行きたかったんです」

家を出るために結婚を決意

呉服店のために編物はしても、結婚だけはしたくなかった。しかし、店の人たちは強硬だった。「結婚しなければ、家を出さない」と宣告された。当時は、適齢期になっても結婚しない女性が身内にいることは、「家の恥」だった。

いくつものお見合いをパスしたあげく、熊谷さんは32歳で結婚することになった。相手は岩手県の出身で、埼玉で仕事をしているトラック運転手である。住まいが父の実家に近かった。

「優しいというわけじゃないけれど、いろんなことに無関心だったから、あまり怒らない人でね。岩手の店では周りの人がみんな怖かったから……」

熊谷さんは結婚には後ろ向きだったけれど、皮肉なことに、結婚をしたことでそれまで果たせなかった故郷への帰還を果たすことになったのだ。

「あの時代は、本当になんだったんだろうって思いますね」

埼玉に戻ってからも、熊谷さんは相変わらず働き続けることになる。(後編へつづく)

山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター

1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。