母は「わが子の幸福が自分の幸福である存在」なのか
後悔が「選ばなかった道」を浮き彫りにするように、母になった後悔は、社会が女性に選ぶことを禁じている他の道が存在することを示している。「母にならない」のような代替の道が先験的に消去されているのである。後悔が、過去と現在の間、実体と想起の間の架け橋となるように、母になった後悔は、女性が何を覚えておくように求められ、何をふり返ることなく忘れるように求められているのかを明らかにするのである。
後悔は、自分が下した決定の結果に対する一般的な感情的反応であり、他者とのさまざまな関係の中に見出すことができる。そして、母になった後悔は、母性が神聖な役割と捉えられ、多くの人間関係のひとつとしては扱えないことに光を当ててくれる。その意味において、後悔は、母が常に他者への奉仕を目的とする──わが子の幸福をそのまま自分の幸福に結びつける──「客体(オブジェクト)」である、という概念に反論する一助となる可能性がある。
後悔は、母を「主体(サブジェクト)」として認識し、母が自分の体と思考、感情、想像力、記憶の所有者であって、これらすべてについて価値が有るか無いかを評価する能力を持つと見なすのに役立つのである。
母になったことを嘆く女性の声に耳を傾ける
多くの場合、母になった後悔を論じようとすると、興味深いことが起きる。後悔についての議論が、即座に母のアンビバレンス(相反する感情を同時に持つこと)についての議論へと移行するのだ。
後悔が、母として経験するさまざまな葛藤の中に位置しているのは確かだが、後悔とアンビバレンスは同一ではない。後悔には母であることについてのアンビバレントな感情が含まれる可能性があるが、母であることのアンビバレンスは必ずしも後悔を意味するわけではないのだ。相反する感情を経験しながらも母になったことを後悔していない母もいれば、母になったことを後悔しているが母であることに相反する感情を持たない母もいる。
私は、母になった後悔を議論の中心としてとどめるべきだと主張している。それは、アンビバレンスと後悔が混同されているためである。この2つが同じものであるかのように扱われ、母になったことを嘆く女性の声に耳を傾ける可能性をなくしてしまっているのだ。