母親は母になったことを後悔してはいけないのか。イスラエルの社会学者、オルナ・ドーナトさんは「すべての女性は母親になりたいはずだとされるが、本当にそうなのか。多くの国では、女性が『母親になる』という“正しい”決定を下して母になるべきという圧力にさらされている」という――。(第1回/全3回)

※本稿は、オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)の一部を再編集したものです。

野原で手で顔を覆い泣いている妊婦
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「子どもがいないと後悔する」という決めつけ

あなたはきっと後悔する!
あなたは!
きっと!
子どもがいないことを後悔する!

2007年、親になる願望を持たないユダヤ系イスラエル人の男女についての調査を実施しているときに、私の心に深く刻み込まれたのが、冒頭の言葉だった。運命の予言めいたこの言葉は、親になるのを嫌がる人のほぼ全員、とりわけ女性に何度も投げかけられる言葉であり、私の頭の中にずっと響きわたっている。そんな人はきっと後悔する。女性は母にならなかったことを後悔する、と。

この断定的な決めつけが、白か黒かの二項対立を示唆していることに、私は違和感を持ち続けている。一方では、「後悔」という言葉を、母になりたくない女性を脅かす武器として利用している。そして他方では、女性が母になったことを後悔する可能性、または母が誰かの親ではない自分に戻りたいと望むという可能性を排除しているのである。

女性は「自由に選んで」いるのか

1年後、私はイスラエルで母になったことを後悔する女性たちの研究を開始した。イスラエルは女性が平均3人の子どもを産む国である。この数字は合計特殊出生率であり、経済協力開発機構(OECD)の加盟国の平均の1.75よりも高い。

それでも私の調査の結果には、他の西側諸国に通じるものがあることが判明した。たとえば米国(合計特殊出生率が1.8)や南米(ブラジルとコロンビア)、トルコ、イラン、インド、パキスタン、カザフスタン、韓国、香港、台湾といったアジア諸国と中東、そしてヨーロッパ諸国であるスイス、イタリア、スペイン、イングランド、フランス、スウェーデン、デンマークといった国々、そして特に1.5という低い数字を持つドイツである。

これらの国の一部では、女性が母になるかどうかを自由に選ぶ余地があるように思われがちだが、それでも女性は「正しい」決定を下して母になるべきという社会的圧力にさらされている。

いずれの国に目を向けても、女性の多くが、出産や子育てをするなかで、「母性」との関わり方について深い苦しみに直面している──そしてまた、後悔が語られることはめったにない。

私は、女性が母になったことを後悔しない、あるいは後悔できないのだと単純に想定するのではなく、私たちの社会的視野が限られているという前提で、この状況にアプローチしなければならないと考えている。姿を見せたり声を聞かせたりしない、言語化されていないかもしれない何かが存在するのである。

「母であることの後悔」は認められていない

母であることが、女性にとって意味のある関係性になり得ること、それによって充実感や喜びや愛情、心地よさや誇りや満足感がもたらされることを、私たちはすでに知っている。

しかし同時に、母であることが緊張と葛藤を呼び、寄る辺なさや欲求不満や罪悪感、恥や怒りや敵意や失望を生み出すかもしれないことも、すでに知っている。そして母であることが、女性の活動と自立の程度を減じる可能性があることも。さらには、母が意識的または無意識に危害を加えたり、虐待したり、時には殺すことができる人間であることも、私たちはすでに理解し始めている。

それでも私たちは、「母」の神話的なイメージが損なわれないことを望んでいる──女性が血の通った生身の人間としてさまざまな経験をするにもかかわらず。そのため、私たちが日常的に尽力したり苦しんだり気遣ったりする他の多くの役割と同様に、母であることが後悔の感情を呼び起こすかもしれないと認めることには、いまだに消極的だ。母が困難に直面し、それを認識しようがしまいが、母になるのが不幸なことだと感じたり考えたりすることは、期待も許可もされていないのだ。

声を上げるための言語がないこと、そして母であることが後悔という人生経験から切り離されていることから、母になった後悔については、公開討論においても、母性に関する理論的なフェミニストの著述においても、ほとんど言及されていない。

母についての、または母によって書かれた文章は、乳幼児の母としての感情や経験にしか触れていないものがほとんどだ。つまりそれらは母になりたての頃についての内容であり、年長の子を持つ母の経験についてや、母と子の人生を母の視点で回顧するといった内容のものは比較的少ない。

さらに、母になることについての女性の心情を扱う文章といえば、母になりたがらない女性を扱う内容のものがほとんどだ。つまり、母を生きる女性とは何ら関係のない「その他の女性」の問題だと考えられるのだ。だから、このトピックに関するフェミニストの理論においてさえも、母になることについては、後悔はもちろんのこと、再評価する余地がないように見える。

「後悔する母」は利己的で頭のおかしな女性

近年、母になったことを後悔するというトピックがインターネットで取り上げられたごくわずかな機会においては、そのことが懐疑や怒りと歪曲の対象として迎えられがちであった。つまり存在自体が否定されたり、後悔する母は利己的で頭のおかしな傷ついた女性であり、現代の「泣き言文化」を体現した不道徳な人間という烙印を押されたりするのである。

私はこのテーマについて2015年に記事を出し(学術誌『Signs』に掲載)、その後ドイツのマスコミの取材を受けた。これを受けて設けられた新しいハッシュタグ#regrettingmotherhoodの下で、多くの西側諸国(特にドイツ)で激論が交わされたが、その際にも不信と怒りという2つの反応をはっきりと見ることができた。

窓のほうを向いて、ベッドに腰掛ける女性の後ろ姿
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非難が集まる一方で「救われた」の証言も

オンラインでの議論が広まるにつれて、私の調査に対して次のような個人攻撃のコメントが続くようになった。

この女を通りに引きずり出して、金づちのくぎ抜きを使って歯を引っこ抜き、町の子ども全員を並ばせて、ナイフで女の肉片を切り落とさせるべきだ。その後、女は生きたまま焼かれるべきだ。

激しい議論のなかで、母になった後悔の声を上げる女性たちへの非難が殺到した。しかし一方で、母になったことを後悔し、そんな人間は自分ひとりだと考えていた母たちから、救われたという証言も数多く寄せられた。

他にも、多くの女性や母たちが、母または子どもの主な養育者になる義務感の苦痛を公表することで、後悔という感情が持つ重要性を表明してくれた。育児のブログやSNSにコメントする何百人もの女性は、これをきっかけに、社会からの厳しい決めつけや批判を避けるべく心の奥にしまっていた感情を(再び、またはようやく)声に出すことができた。

母であることについての感情には大きな振れ幅があり、それらを表立って論じることが望まれているのは明らかだ。母であることに関する公の言説には、まだ何か深く欠如しているものがある。何かしら言うべきことが、舌の先に残ったままなのだ──母になったことを後悔することが、根深いタブーである限りは。

「母になるという義務」の再考を

2008年から13年にかけて行った私の調査では、暗黙のタブーであるこのトピックに居場所を作ることを目指し、そのために、母になって後悔しているさまざまな社会集団のさまざまな年齢の女性に話を聞いた。すでに孫を持つ人もいた。『母親になって後悔してる』では、これらの女性が母になるまでにたどった多様な道筋をふり返り、子どもが生まれてからの知的・感情的な世界を分析し、誰の母でもいたくないという願望と、子の母であるという事実との間の苦しい葛藤について探究してゆく。加えて、こういった葛藤について、さまざまな女性がどのように認識し、どう対処しているのかについても調査する。

オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)
オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)

とはいえ、私の関心は、母になった後悔の存在を認識することだけにあるのではない。それでは、社会を責任から解放することになってしまうからだ。

もしも後悔を、母になることに適応できない女性の失敗だと個人化するなら(それゆえに、そのような女性はもっと努力するべきだというなら)、多くの西洋社会が女性に母になることを熱心に勧めると同時に、その説得に応じた結果としての孤独を受け入れさせようとすることに対して、目をそむけたままになってしまうのだ。

後悔とは、いくつかの公開討論で示唆されたような「特別な出来事」ではない。「変わり者の女」が「感情を吐露する見世物」ではないのだ。

感情を、権力のシステムに対抗する手段だと捉えるなら、後悔は一種の警鐘である。母親がもっと楽に母でいられる必要があると社会に警告を発するだけでなく、生殖をめぐる駆け引きと、母になるという義務そのものを再考するように促しているのである。

母は「わが子の幸福が自分の幸福である存在」なのか

後悔が「選ばなかった道」を浮き彫りにするように、母になった後悔は、社会が女性に選ぶことを禁じている他の道が存在することを示している。「母にならない」のような代替の道が先験的に消去されているのである。後悔が、過去と現在の間、実体と想起の間の架け橋となるように、母になった後悔は、女性が何を覚えておくように求められ、何をふり返ることなく忘れるように求められているのかを明らかにするのである。

後悔は、自分が下した決定の結果に対する一般的な感情的反応であり、他者とのさまざまな関係の中に見出すことができる。そして、母になった後悔は、母性が神聖な役割と捉えられ、多くの人間関係のひとつとしては扱えないことに光を当ててくれる。その意味において、後悔は、母が常に他者への奉仕を目的とする──わが子の幸福をそのまま自分の幸福に結びつける──「客体(オブジェクト)」である、という概念に反論する一助となる可能性がある。

後悔は、母を「主体(サブジェクト)」として認識し、母が自分の体と思考、感情、想像力、記憶の所有者であって、これらすべてについて価値が有るか無いかを評価する能力を持つと見なすのに役立つのである。

母になったことを嘆く女性の声に耳を傾ける

多くの場合、母になった後悔を論じようとすると、興味深いことが起きる。後悔についての議論が、即座に母のアンビバレンス(相反する感情を同時に持つこと)についての議論へと移行するのだ。

後悔が、母として経験するさまざまな葛藤の中に位置しているのは確かだが、後悔とアンビバレンスは同一ではない。後悔には母であることについてのアンビバレントな感情が含まれる可能性があるが、母であることのアンビバレンスは必ずしも後悔を意味するわけではないのだ。相反する感情を経験しながらも母になったことを後悔していない母もいれば、母になったことを後悔しているが母であることに相反する感情を持たない母もいる。

私は、母になった後悔を議論の中心としてとどめるべきだと主張している。それは、アンビバレンスと後悔が混同されているためである。この2つが同じものであるかのように扱われ、母になったことを嘆く女性の声に耳を傾ける可能性をなくしてしまっているのだ。

母であることの「後悔」、母であることの「つらさ」

母であることの苦難の議論になだれ込むと、後悔という概念が与えるはずのものが打ち消されてしまう。私たちは、自明の理とされていることを再考する必要がある。世界中のすべての母が、母であることを価値ある経験だと認識しているという大原則について、もう一度考え直すべきなのだ。

さらに、この2つを混同することは、現状維持につながる。なぜなら、複雑性とアンビバレンスという言葉を使うことによって、私たちはまたしても、後悔の核心から生じる重要な疑問に対処することに背を向けてしまっているからだ。

その疑問とは、母になることそのものである。女性が主体として行動できる余地には限りがあるが、その中で女性自身が、出産して子育てをしたいかどうかを自分で検討し、決定するのである。

後悔に焦点を合わせることは、後悔はしないが母であることに苦しんでいる女性を理解するためにも間違いなく役立つ。時折「母」という役割を人生の記録から消してしまいたいとぼんやり考えながら、そのような「禁じられた」願望を履歴から完全に削除するように求められている女性が存在するからだ。このように、後悔に焦点を合わせることは、社会的構成概念の影響に直面するすべての母に役立つのである。