ゲーム的攻略目標としての「東大」ブランド

そして、子どもの数がやたらと多くて、生き残るためには競争がデフォだった世代とは異なり、少子化で外見も中身も激変した新しい形の教育で育った、若くて豊かな世代においては、受験のキツさも意味も変わってしまった。今の子たちは小さな教室に50人もギュウギュウ詰め込まれないし、朝礼でクッソ暑い/寒いなか砂埃だらけの校庭に集められて乾布摩擦させられたりしないし、私語がうるさいとか問題が解けなかったとかで教師にバットで殴られたりしない。

その昔、勉学に励んで優れた成績を取ることは、生き残り策や階級上昇策だった。だが少ない子どもたちに豊かな資本が投下される現代では、「東大」は切実な生き残り策ではなく、どこかゲーム的な達成目標の匂いがする。

トップだと世間に証明するために

東大で何が学びたいか、誰と会いたいか、どんな学生生活を送りたいか、が動機ではない。「ピラミッドのトップだから攻略したい」の発想だ。はっきり言ってそれが東大じゃなくたって全然構わない。競争の頂点でありさえすればいい。俺が/私が一番なのだと証明さえされればいい。現代のテレビのクイズ番組を見て育てば、「東大はブランドだ」と確信を持つのも当たり前だ。実際、東大の2文字はメディアでは間違いなく数字を稼いでくれるブランドだ。

そういうブランドとしての発想は現代だけに特徴的なわけではなく、学力と人格がどこかアンバランスな学生の間には以前からあった。中学校受験などで年齢ヒト桁から全国模試を受けさせられ、自分の名前が成績順のランキング表に掲載されるのを当たり前とし、それを見て「(狭い)世界の中の自分の位置」を確かめる精神習慣を培った学生が、大学の志望校を問われて「理三です」と無表情に答える。「東大に行きたいわけでも、他大学の医学部や医大に行きたいわけでもないです。理科三類に行きたいんです。自分の居場所はそこしかない。だってトップですから。医学部に進んで医者なんかになりたいわけじゃないです。自分の頭脳は日本のトップなんだって、世間に証明できればいいんです」