孤独に葛藤するあなたへ
「最悪を基準に考えると、不満が生じない」
基本的に、私は何に対しても最善を求めません。次善でもよし、次々善でもよし、という姿勢でものごとに向き合います。こうなったのは、私の生い立ちによるところが大きいかもしれません。
幼い頃から、私の両親は仲が悪く、家の中はいつも修羅場でした。父がいる時は両親の言い争いが絶えず、母は私を道連れに自殺を図ったこともありました。未遂に終われたのは、私が止めたからなのですが、そうやって生き残った娘は、その経験から「人生なんてろくなものではない」ということを学びました。この世に確かなものなんてない、運命は時に人を途方もなく裏切るものだと、それ以来、ずっと私は思っているのです。
以降、私が常に人生で「最悪」を想定して生きるようになったのは、自分を守るためだったのだと思います。現実が想定していたより幾分でもましであれば、絶望せずに済むのですから。それに、しょせん人生なんてその程度のものだと、私は思ったのです。完全なんてありえない。何かがいつも欠けている。どれかをあきらめ続ける。それが私の人生だろうと、考えるようになりました。
“苦労人”として育ったことは、その後の私の人生に色濃く影を落とすことにはなりましたが、今振り返って思うのは、そんな経験もまた人生の財産だった、ということです。
「最悪」を予感してものを考えると、起こったことをすべてプラスにとらえることのできる「足し算の発想」で生きていられることになります。そうすると、あんなこともしていただいた、こんなこともしていただいた、という幸運の連続と思えるから、不満の持ちようがありません。
一人で生まれ、一人で死ぬ宿命
「皆、苦しく孤独な戦いを背負っている」
どんな仲のよい友人であろうと、長年つれそった夫婦であろうと、死ぬ時は一人なのです。このことを思うと、私は慄然とします。人間は一人で生まれて来て、一人で死ぬのです。
人生の基本は一人。それ故にこそ、他人に与え、係わるという行為が、比類ない香気を持つように思えてきます。しかし原則としては、あくまで生きることは一人。
それを思うと、よく生き、よく暮らし、みごとに死ぬためには、限りなく自分らしくあらねばなりません。それには他人の生き方を、同時に大切に認める必要があります。その苦しい孤独な戦いの一生が、生涯、というものなのです。
「愛だけはいくら与えても減ることはない」
人は受けている時には一瞬は満足するが、次の瞬間にはもう不満が残るものです。もっと多く、もっといいものをもらうことを期待するからにほかなりません。
しかし自分が人に与える側に立つ時、ほんの少しでも楽しくなります。相手が喜び、感謝し、幸福になれば、それでこちらはさらに満たされる、という不思議さは、心理学のルールとしては基本的なものなのです。
あらゆる物質は、こちらが取れば相手の取り分は減る、というのが原則です。食料でも空気中の酸素でも日照権でも、すべてこの原則を元に考えられています。しかし愛だけは、この法則を受けません。与えても減らないし、双方が満たされるのです。