「お坊さん」に憧れた少女
群馬県の冬の風物詩で、「上州のからっ風」「赤城おろし」の名で知られる北西風が、ものすごい音を立てて建物を揺らしている。ここは、2020年に群馬県伊勢崎市に建立された新寺「天台宗 照諦山 心月院 尋清寺」。住職を務める髙橋美清さんは、かつて「髙橋しげみ」の名で競輪のテレビ中継でメインキャスターを務めていた元アナウンサーだ。
子どもの頃は表に出ることが苦手なタイプ。いつも誰かの陰に隠れていた。母の実家は寺で、祖父と曾祖父は天台宗の僧侶。髙橋さんが8歳の時、茨城県にある寺で祖父の晋山式(住職になる儀式)が執り行われることになり、少女はその光景に心を奪われた。
「『お坊さんってかっこいい!』と思ったんです。袈裟とか、とてもきれいじゃないですか。憧れましたね。その後、祖父が早くに亡くなってしまったこともあって、きっかけがないままアナウンサーを続けましたが、『50歳になったらお坊さんになろう』という思いはずっと頭の片隅にありました」
引っ込み思案の子どもがアナウンサーに
短大在学時はモデルをしながら高崎市のホテルでエレクトーンを弾くアルバイトをしていた。その頃、地元の群馬テレビから新番組のアシスタントのオーディションを受けてみないかと声がかかった。よくわからないままオーディションを受けたところ、結果は合格。
「私は1964年生まれで、6歳下の妹がいるんですが、その時代の長女って周りから『お姉ちゃんなんだから我慢しなさい』『いい子でいなさい』と言われることが多かったんです。短大卒業後は幼稚園の先生になるつもりだったのですが、せっかく声をかけていただいたのに途中で投げ出すのはよくないと思い、1年間テレビの仕事を頑張りました。その上で、自分には向いていないとは思ったのですが、『続けてみたら?』と言ってくださる方がいて、結局フリーでテレビの仕事を続けることになりました」
程なくして東京のキー局の早朝の帯番組で、天気予報を担当することになった。アナウンサーとしてのトレーニングを受けたこともなく、最初はマイクの持ち方さえ分からなかったが、局のアナウンサーに教えてもらいながら、何とか仕事をこなせるようになっていく。
「天気予報を担当し始めたのが1989年。同じ頃に、競輪場の場内アナウンスの仕事が決まりました。『せっかくキー局の仕事が決まったのに、なぜ競輪なの?』と反対する方もいましたが、しばらくはお天気と競輪の仕事の両方をやっていたんです。ところが、メニエール病で倒れてしまい、競輪一本に絞りました」