なんて残酷な民なのだろうか

皇室が「自分の国の皇室」であることには何の疑問もないが、「品格を保ち続けてほしい」という思いはない私は、どうして皇室に思い入れがないか、むしろどう思っているかを説明した。「その家を選んで生まれてきたわけでもないのに、生を受けた瞬間から全国民に監視され、『血税』を人質にして発言や行動を批判され、謝罪を求められ、気の毒としか思えないですよ」

なぜ、皇室の品格が「自分の品格」と近距離にひも付けられてしまうのか。自分のアイデンティティを皇族という「遠い他人」に預けられるのか。そこに疑問を持ったことがないのではないか、掘り下げたことがないのではないか? 私にとっては不思議で、不健康な精神のあり方だと思う、とも伝えた。

「小室圭さんが嫌だというのなら、じゃあ誰だったらネット民は納得するんでしょうね。仮にいまこの状況まで来て破談させて、眞子さま本人の感情も精神も踏みにじって、毒にも薬にもならないけれど『血統』だけはいいようなお相手を連れてきて、鳴り物入りでただの手続きとしての祝祭を国民的行事として挙げる。潔癖な日本国民はみんなで納得するのかもしれない。ただ眞子さまという一人の女性の人生と人格をみんなで寄ってたかって追い詰めて踏みにじったという歴史と、その後生きていく眞子さまの女性としての空虚な人生だけが残るんですよね? そういう歴史を『品格を大切にする日本の国民』は良しとするのだとすれば、なんて残酷な民なのだろうと、私は思いますよ」

最後まで埋まらない溝

多分、こう書いても「その何が悪いのか、むしろ歓迎すべきじゃないか」と思う人々が、日本には確実にいる。一方で、こう書けばいま日本のネットやマスコミで起こっていることがどれほど醜く残酷なことであるか、伝わる人々もいると信じたい。

先述の記事では、「結局この問題は“天皇、そして皇室に対してどう思うか?”という価値観の問題に収斂しゅうれんされていくのではないか。皇室に対する思い入れが薄ければ薄いほど、皇族を赤の他人と見なすため、『自由にさせてあげれば良い』という結論に近づく。一方、皇室に対する誇りや愛着が強ければ、その一員である皇族が“ダメな男”と結婚することがどうしても許せなくなる」、「極論すれば、好き嫌いの問題ということになるのかもしれない」と結論されている。そう、これは是非ではなく価値観の問題である、という点に、私も大賛成だ。

埋まらない溝、「分断」の理由は、終戦後センシティブな存在になった皇室への本当の感情や本当の定義があえて真正面からは語られず、ふわっとサスペンド(保留)されてきたツケが可視化されているからでもあると感じている。

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。