「もうやるって決まったんです」の同調圧力
海外から来日した選手団を隔離するロジスティクスを指す「バブル方式」なる言葉がいつの間にか常識であるかのように大手を振って「バブル方式で国民の安心安全を」「バブルに本当に穴がないか心配ですよね~」とバブルバブル連呼されており、「私にとってバブルなる言葉が意味するものは、90年代初頭に無惨に弾けたやつですけど?」と違和感満載で聞いていた。
五輪に詳しいというスポーツジャーナリスト氏が「もうやるんですよ、決まったんです、有観客です」とばかりのテンションでスラスラと新版プレイブックを解説し、それに誰も異論を挟めないまま、当惑のうちに朝の情報番組が進んでいく。「もうやるって決まったんです」の空気に、「えっ、世の中ってもうそっち賛成に舵を切ったの? せめて無観客じゃないの?」とびっくりして口をつぐんでしまったダサい私は、「何も言えなかった自己嫌悪」でひとりゲー吐きそうなほどの敗北感に打ちひしがれて帰った。
角を立てません、とその場の全員が「大人らしくわきまえた」配慮というか忖度の結果、表舞台できちんと反論されなかった無茶なアイデアが事実として「発進」していく。地上波全国放送で、いろいろな世代や性別の人が見る朝のワイドショーで、一時的ではあっても「(ノーダウトに見える)五輪有観客開催」が流れたことに、私は恐怖を感じた。「無茶」にきちんと反論しないことが、それをいつの間にか「既成事実」に成長させてしまうプロセスを見た気がした。
お互い顔を見合わせて忖度する「常識的な社会」。日本の太平洋戦争はこうやって、みんなが「えっ本当に? 本当にやるの?」って思う中で地滑りみたいに始まっていったんだな、と思っていたら、ネットでも同じように違和感を感じた人たちが沸騰していて、ああこの気持ち悪さは自分だけじゃなかったのかと、ちょっと安心した。