納棺師として、いちばん多く耳にする後悔
ちなみに納棺や葬儀をしていていちばん耳にする後悔は、「もっといろいろなところに連れていってあげればよかった」。次点が「もっと話しておけばよかった」です。近況報告や雑談もそうですし、ルーツや親御さんの子どものころの話って、意外と知らないものなんですよね。ぜひ、大切なひとと過ごすことができる残りの時間を意識してみてください。
「死への距離感」を決めると、自分に対してもひとに対しても、「後悔しないためにどうするか」という発想になります。
「いつかしよう」と思っていることを、できるだけ実現しようとする。
時間の貴重さを痛感し、大切なひとに愛情を注ぐようになる。
こころの動かないもの、ただ時間を浪費するような行動を避けるようになる。
―――これが、死を味方につけるという感覚です。毎日を見る目が、変わっていくのです。
自分はどう語られ、どう憶えられるか
そして「死への距離感」ともうひとつ、ぼくが多くの故人さまから教えていただいた、大切な「生き方の指針」があります。
それが、「自分はなにによって憶えられたいか」。
これは「マネジメントの父」として知られるピーター・F・ドラッカーが13歳のとき、恩師である牧師から投げかけられたことばです。「いますぐに答えられる問いではないが、50歳になっても答えられなかったとしたら、人生をむだにしたことになるよ」と。
自分は、どんなひとだったと語られたいか。どんな思い出を遺したいのか。
具体的にイメージしてみたいと思います。
みなさんにも大切なひとや、仲のいい友人がいることと思います。いまそのひとが命を落としたら、自分はお別れの場でどう「おくる」でしょうか。
きっと関係が近ければ近いほど、彼/彼女の言動や表情、好きなことや嫌いなこと、打ち込んでいた仕事やひととなり―――たくさんの「あのひとといえば」があふれ出てくることでしょう。
ではもし、「故人」があなただったら?
自分は「どんなひとだったと語られる人間」なのか、想像できるでしょうか。
夫や妻、親や子ども、知人友人からどんなふうに、「あのひとと言えば……」と言われるでしょうか。どうおくられるでしょうか。
「真面目なひとだった」とか「やさしいひとだった」といった、だれにでも当てはまるようなことば以上の「あなた」が、そこにいるでしょうか。
それだけの関係を、近しいひとたちと築けているでしょうか。