次々に導き出される残酷なファクト

すでに先行報道で、この本をきっかけとした小池百合子のカイロ大首席卒業疑惑が再燃しているのをご存じの読者も多いだろう。読みながら、途中で何度も鬱々うつうつとした気分に襲われて心が折れそうになった。この著者は、なんという本を書いてしまうのだ。証言者たちの言葉から、私たちが能天気に眺めていたニュースのあの場面の裏側から、残酷な“ファクト”が次々と導き出されては並べられる。舛添要一と小池百合子が付き合っていたとか、その復讐がどうとか、脳が想像を拒否している。しかも著者の執筆の動機が、小池の学歴詐称疑惑などから湧き出た人格的な疑問=「人間的な在りよう」にあるから、事実への執着はあっても小池への愛がない。これが読んでいてつらい。

莫大な労力と時間が注ぎ込まれたファクトだらけの世界へ、才気溢れる著者の筆でグイグイと連れていかれる。それは確かだ。「暴露本」と断じた不公平な新聞書評もあったようだ。だがそういう感想を持つ人がいたとしても少しは理解できてしまうほど、どんなに小さくてもいいから光の見える出口が著者によって用意されていたらと願うのは、ナイーブだろうか。

小池百合子の生い立ちや学生時代のさまざまな無体の描かれ方も、人間として未熟な時期であることをわきに置いて容赦がなく、人間性を根本から疑うような内容になっている。その小池が社会に出たあとの様子は、計算高い銀座の新人ホステスがナンバーワンに駆け上がるサバイバル譚だと思って読めば、むしろ腑に落ちるかもしれない。

全体的に、登場人物の誰にも救いがないあまりのストイックさ(?)に、軟弱な私はもうノンフィクションを読まないかもしれない、と消化しきれない疲労感の中で本を閉じた。昭和後期から平成にかけて彼女の周りに群がったマスコミや政財界の登場人物全て、あまりにも小狡く愚かに描かれてしまった男にも女にも失望してしまうのは、そのころ思春期だった私にとって彼らは憧れの政治家や経営者や「論客」や「キャスター」だったからだろう。厳しくも一切手を緩めることのない、渾身のノンフィクションによって、読者は「小池百合子とは、常人の理解を超える化け物だったのだ」と当惑と失望のただ中に置いてきぼりにされ、ひどく傷つき、消耗する。

これが戦後女性解放の答えなのか

膨大な資料と綿密な聞き取りから、小池百合子という女性の67年の半生が全否定される。これまでの日本で、無邪気な百合子フィーバーとして共有されてきた気分に一切の共感を示すことなく、「小池百合子の裏切り」と「小池百合子を信じた者たちの愚かさ」を遠慮なく指摘するこの本。著者は終章でこう書く。

“私はこれまで女性の評伝を書くことを作家として、もっぱらとし、男性優位の日本社会の中で近代を生きた女性たちの煩悶を、無念を、希望を綴ってきた。(中略)。それなのに、気持ちは重く塞ぐばかりだ。彼女の快進撃を女性の解放として、女性が輝く権利を手にしたとして、これまでの女性たちの苦難の道の末に咲かせた花であるとして、受け取り、喜ぶことが、できない。(中略)。戦後女性の解放の、これが答えなのかと考えさせられ、答えが出せないでいる。”(p.425〜p.426)