紙幣により栄え、紙幣により滅ぶ

宋王朝は銅銭・鉄銭の兌換準備金36万貫に対し、交子の発行限度額を125万貫としました。著しい経済発展のなか、宋王朝は銅銭や鉄銭の鋳造を追いつかせることができませんでしたが、交子の発行によって、貨幣供給を増大させました。

しかし、宋王朝が財政に窮しはじめ、財源を確保するため交子の発行限度額が破られ、濫発されるようになります。交子の発行額は12世紀初頭に、2600万貫となり、当初の発行限度額の20倍以上に達します。交子は信用を失い、その価値は暴落しました。これに伴い、市場は信用不安を起こし、経済は破綻していきます。最終的に宋王朝は異民族に滅ぼされます。

宋を倒して、元王朝を創始したフビライ・ハンは、北宋と南宋が発行していた紙幣である交子と会子を交鈔(中統鈔)に交換させ、交鈔を法定通貨と定めました。交鈔は元王朝が準備する莫大な銀保有で、信用保証されていました。

当時、ヨーロッパには紙幣はなかったため、マルコ・ポーロが中国を訪れたとき、交鈔を見て驚きました。『東方見聞録』にも、元の紙幣について、以下のように記されています。

「ハンは一切の支払いを紙幣で済ませ、治下の全領域に、これを通行せしめる。流通を拒めば死刑になるので、誰一人として、授受を拒む者はいない。実際のところ、どの地方でもどんな人でも、いやしくも、ハンの臣民たる者なら誰でも、快く紙幣での支払いを受け取る。というのも、彼らはどこへ行こうと、紙幣で万事の支払いができる」

元王朝に来訪したモロッコの大旅行家イブン・バトゥータも旅行記『三大陸周遊記』で、交鈔について記しています。

しかし、元王朝も最終的には、宋王朝と同じく、禁じ手の紙幣増刷という誘惑に勝てず、交鈔の濫発によってインフレを引き起こし、経済を混乱に陥れ、それが主な原因で王朝が崩壊していまいます。これは次の王朝の明王朝も同じです。明は宝鈔という紙幣を発行し、当初は発行限度額が守られ、規律が保たれていましたが、次第に禁じ手の紙幣増刷に依存するようになります。

このような経緯を反省し、17世紀に成立する清王朝は紙幣を発行せず、実物貨幣の銀貨を流通させました。

宋王朝、元王朝、明王朝などの中世の中国王朝は紙幣増刷により、財政を補填し、市場の信用を失い、衰退、若しくは滅亡しています。前王朝の負債を一掃するべく、新王朝が成立するも、やはり、紙幣増刷に麻薬のように依存し、信用を失い、次の王朝へ移行していくというパターンが繰り返されました。