小林りんさんは、日本初の全寮制インターナショナルスクール「ISAK」の代表理事。開校から現在まで、ほぼ無給で学校運営に携わっています。そんな小林さんの母親は、元多摩市長の渡辺幸子さん。2002年から10年まで、初の女性市長を務めました。長く市役所職員だった母親は多忙で、保育園の迎えはいつもビリだったといいます。それでも小林さんは「母親の愛情と信頼をいつも感じていた」と振り返ります――。

※本稿は「プレジデントウーマン」(2018年4月号)の連載「母の肖像」を再編集したものです。

忙しく働く母から、受けていた愛情と信頼

小学校低学年くらいのとき、母の知り合いの息子さんが、私が一生懸命つくった折り紙を食べてしまったんです。その息子さんは発達障害のある子だったんですが、私はとても悲しくて大泣きしたんです。すると、母が「世の中には、いろんな人がいるの。障害があるとかないとか、みんないろんな違いがあるの。その違いをすべて受け入れて生きていきなさい」と言ったんです。

1978年、母・幸子さん29歳、りんさん4歳。平日は保育園に通い、週末は親子でボランティア活動にいそしむ日々の中、一緒に過ごせるわずかな時間をめいっぱい楽しんでいた。

母は、世の中の人のためになりたくて、ソーシャルワーカーをめざして市役所に入庁したような人。業務以外のボランティア活動にも熱心で、「体に障害があったり、家庭環境が貧困だったり、いろんな人がいるけれど、それはすべて“違い”や“個性”。どんな人も尊厳を持って生きていて、私たちがそんな人たちと一緒に生活を営むために、社会の中で支え合うのは当然のこと。決して施しじゃないの」と、正確な文言は忘れましたが、母はそういうことをよく言っていました。私も物心つく頃には、母と一緒に多摩川のゴミ拾いや点字教室、アルコール依存症患者さんの家庭訪問など、週末はいろんなところに行っていました。

母は仕事が大好きな人だったので、週末はボランティア、平日は仕事に全力投球。私は0歳の頃から保育園に通っていて、お迎えはいつもビリ。閉園時間になっても迎えに来ないから、職員室で待っているなんてこともよくありました。

小学校に上がってからは自宅で1人、両親の帰りを待っていましたし、長期休みにはお弁当を持って学童保育へ。当時のニューファミリー層が多く暮らす、東京郊外の新興住宅地、多摩ニュータウンに住んでいたので、周囲も共働きの家庭が多かったのです。学校から帰ると近所の友人やお隣の家に遊びに行ったりしていたので、寂しい思いをした記憶はありません。母親が仕事で家にいないのが当たり前だと思っていましたからね。母は年々仕事が忙しくなっていき、私が小学校高学年になると、たまに夜だけ知り合いのおばさんがいらして、ご飯をつくってくれるようになりました。寝る時間までその人と一緒にいて、寝る時間になると母が帰ってくるという生活でしたね。

1人で過ごす時間が長かったのですが、親の愛情と信頼は子どもながらにすごく感じていました。小学生の頃、反抗期の私の態度が学校で問題になって、両親が呼び出されたことがあったんです。2人は帰宅するなり、「うちの子は確かに生意気ですが、問題行動をしているとは思いません。僕たちは彼女を信じていますから」と言ってきたよ、と言うのです。絶対的に信頼されていることがひしひしと伝わってきました。その時のことはいまだに忘れられません。親から受けている絶対的な信頼を裏切ってはいけない、信頼に応えたいと、子どもの頃、いつもどこかで思っていた気がします。