そんな話をネットサーフィンで拾いながら、彼らがたどってきた道のりを想像し、これはさぞかし、母である女優・高畑淳子さんは息子の裕太さんが独立するときには、うれしくて、でも寂しくて、バスタオルどころか夏用タオルケット1枚分泣くだろうなぁ、泣く理由が十分にあるわ……としみじみ感じ入ってしまった。この2人を見て「息子溺愛の母とマザコン息子」なんて悪口を言う人もいるかもしれないし、甘えとか過干渉とかなんとか、言いたい人は言うんだろう。現にすでに息子の高畑裕太さんは「甘えた2世俳優」なんて扱いで厳しいことを言われる場面もあるようだ。でも、母の高畑淳子さんはそんなことは十分に理解したうえで、息子を必死に理解し、一緒にここまで歩き、導いてきたのだろうと思う。どうしようもなく手がかかり、憎ったらしい。でも人生の中で自分自身などを差し置いて最優先事項であり、一番の関心であり、心配事である。それは、息子が母にとって「自分の中から出てきた、自分と同じ特徴を持つ異性」だからだ。
どんなに聡明で仕事ができて、分厚い人間観を持つ人でも分からないもの、どうにも分かりにくいものがある。それが「異性」であり、だから男性は女性を、女性は男性を、分からないが故に意識し、あるいは懸命に理解しようと追いかけるのではないかと思う。分からないから興味が尽きない。どうもそのへんがドライバーとなって、人間は生きているのではないか? 対象がよその他人でなく、自分の遺伝子を持つ異性の子育てならなおのこと、日々「自分に似ている部分」と「自分とは絶対的に異なる部分」を否応にも見せつけられながら、諦めたり手放したりすることなど許されずに(だって養育者が手放したら死んじゃうもの)、毎日向き合わなければならない。振り回される。追いかける。危なっかしいから気になる……ああ、そうかなるほど。これはまるで、恋ではないか。
こうして、昨今の子育て系メディアでよく取り上げられる「異性の子どもにメロメロになる親」が生まれるのではないかと思う。「息子を大好きな母」「娘にメロメロな父」などと言うと、子どもを恋人状態にしている単なるバカ親だと思われがちだが、そんなのは現代に限ったことでも何でもなく、古今東西あちこちにずっと存在していた。その原因は多分に「自分の遺伝子を運んでいて」、かつ「異性である」という2つの要素を満たしているがゆえの、自己愛を多少なりとも帯びた没入なのではないかと思われるのだ。
作家の吉本ばなな氏が、子育てとクリエイティビティをめぐっての対談で「男子を産んで初めて、それまで懸命に理解しようと追いかけてきた男とは何なのかを、根本から理解できたような気がする」という旨の発言をしていたことがある。私も息子を産んだ瞬間から没入している身として、心の底から理解できた。なるほど男とは、男子とはこういうものなのか、だからなのかと、身体的のみならず精神的にも発生から成長までを伴走することにより、あらゆるすべてのことに合点がいったのだ。多分に、男性も娘を育てることで同じように「そうか女とはこういうものなのか」といろいろ合点がいっているはずだ。同性を育てているときは、自分を含めた世の同性を掘り下げ、自分とも向き合う作業だけれど、異性の子育てはその子を通して完全に自分の異性観や、己の内なる「異性」と向き合う作業だ。そしてイヤというほど知るのだ、「女とは、なんと大胆で生命力に満ちた生き物だろう」「男とは、なんという繊細で愛すべき生き物だろう」。そして、「人間を育てるとは、なんて知的刺激に満ちてクリエイティブな作業だろう」と。