身の回りでも芸能界でも、「息子を大好きな母」「娘にメロメロな父」は多いもの。なぜ母は息子を、父は娘を溺愛してしまうのだろうか?

しばらくカタい話が続いたので、たまにはデロデロに柔らかい話を。今回は、若い女子から「マザコン育成の温床!」と糾弾される「息子と母の関係」などについて。

母親にとって、息子というのは本当に可愛いものなのです。

日々の執筆という知的重労働(ということにしておいてはくれまいか)から逃避してダラダラと無料動画を見ていたら、NHKの朝ドラで一気にブレイクしたという若手俳優が出ているバラエティー番組があり、釘付けになった。

母はかの有名な、中高年世代を代表する舞台出身の名女優だそうで、確かにくっきりとした端正な顔立ちがそっくりだ。ドラマでもバラエティでも息長く引っ張りだこの母から演技の面白さを教えられて俳優の道に進んだが、母譲りのユーモアのセンスとサービス精神、何よりも深い人間観を持つ演技派女優たる母の手一つで手塩にかけて育てられたがゆえであろう、育ちの良い変人ぶりから、母と一緒にバラエティ番組に出演してエピソードを披露する仕事も多いのだという。

「趣味はAV鑑賞」という開けっぴろげさで周囲に愛されるが、学生時代はどちらかというと生活態度も勉強も残念気味な少年で、それをそっと支える「お母さん」(彼は今の若い世代特有の屈託のなさで、公の場でも母親を「母」ではなく「お母さん」と呼ぶ)との二人三脚でやってきた。そんな、決してピカピカに優秀でないエピソードがまったくネガティブに聞こえず、「お母さん」との関わりも嫌味にならないのは、彼も母であるその女優も、実際にはきっとたくさんの涙を流しながら修羅場をいくつも乗り越えてきたからだ。

「中学の反抗期は結構大変だったんだって?」と司会者に尋ねられ、「はい。僕が反抗期でお母さんが更年期だったんです」と大爆笑をさらっていたが、実際には壮絶だったらしい。いじめや非行があり、家の外に響き渡るような罵声が飛び交い、母が刃物を持ち出して「あんたを殺して私も死ぬ!」と叫ぶ場面もあったというから、当時は母子ともに、いつかその日々を笑い事にできるなどとは思えない状況だっただろう。見ていると、きっといわゆる「手のかかる子」、他と比べてゆっくりと発達する少年だったのだろうなと思う。

子どもは工業製品ではないから、決まった規格ではないし、それぞれに個性や発達のスピードがある。2度の離婚を経験した母は、娘と息子2人を自分の女優としての稼ぎで食べさせるシングルマザーだったが、実力も安定した人気もあり、何より聡明な女性だから、気も強ければ自分の能力に自負もあった。でも、喘息とアトピーに片耳の失聴など、体が弱かった息子の子育てを経て「忍耐を学んだ。私の人生を変えたのは息子」と話すほどなのだそうだ。

そんな話をネットサーフィンで拾いながら、彼らがたどってきた道のりを想像し、これはさぞかし、母である女優・高畑淳子さんは息子の裕太さんが独立するときには、うれしくて、でも寂しくて、バスタオルどころか夏用タオルケット1枚分泣くだろうなぁ、泣く理由が十分にあるわ……としみじみ感じ入ってしまった。この2人を見て「息子溺愛の母とマザコン息子」なんて悪口を言う人もいるかもしれないし、甘えとか過干渉とかなんとか、言いたい人は言うんだろう。現にすでに息子の高畑裕太さんは「甘えた2世俳優」なんて扱いで厳しいことを言われる場面もあるようだ。でも、母の高畑淳子さんはそんなことは十分に理解したうえで、息子を必死に理解し、一緒にここまで歩き、導いてきたのだろうと思う。どうしようもなく手がかかり、憎ったらしい。でも人生の中で自分自身などを差し置いて最優先事項であり、一番の関心であり、心配事である。それは、息子が母にとって「自分の中から出てきた、自分と同じ特徴を持つ異性」だからだ。

コラムニスト・河崎環さん

どんなに聡明で仕事ができて、分厚い人間観を持つ人でも分からないもの、どうにも分かりにくいものがある。それが「異性」であり、だから男性は女性を、女性は男性を、分からないが故に意識し、あるいは懸命に理解しようと追いかけるのではないかと思う。分からないから興味が尽きない。どうもそのへんがドライバーとなって、人間は生きているのではないか? 対象がよその他人でなく、自分の遺伝子を持つ異性の子育てならなおのこと、日々「自分に似ている部分」と「自分とは絶対的に異なる部分」を否応にも見せつけられながら、諦めたり手放したりすることなど許されずに(だって養育者が手放したら死んじゃうもの)、毎日向き合わなければならない。振り回される。追いかける。危なっかしいから気になる……ああ、そうかなるほど。これはまるで、恋ではないか。

こうして、昨今の子育て系メディアでよく取り上げられる「異性の子どもにメロメロになる親」が生まれるのではないかと思う。「息子を大好きな母」「娘にメロメロな父」などと言うと、子どもを恋人状態にしている単なるバカ親だと思われがちだが、そんなのは現代に限ったことでも何でもなく、古今東西あちこちにずっと存在していた。その原因は多分に「自分の遺伝子を運んでいて」、かつ「異性である」という2つの要素を満たしているがゆえの、自己愛を多少なりとも帯びた没入なのではないかと思われるのだ。

作家の吉本ばなな氏が、子育てとクリエイティビティをめぐっての対談で「男子を産んで初めて、それまで懸命に理解しようと追いかけてきた男とは何なのかを、根本から理解できたような気がする」という旨の発言をしていたことがある。私も息子を産んだ瞬間から没入している身として、心の底から理解できた。なるほど男とは、男子とはこういうものなのか、だからなのかと、身体的のみならず精神的にも発生から成長までを伴走することにより、あらゆるすべてのことに合点がいったのだ。多分に、男性も娘を育てることで同じように「そうか女とはこういうものなのか」といろいろ合点がいっているはずだ。同性を育てているときは、自分を含めた世の同性を掘り下げ、自分とも向き合う作業だけれど、異性の子育てはその子を通して完全に自分の異性観や、己の内なる「異性」と向き合う作業だ。そしてイヤというほど知るのだ、「女とは、なんと大胆で生命力に満ちた生き物だろう」「男とは、なんという繊細で愛すべき生き物だろう」。そして、「人間を育てるとは、なんて知的刺激に満ちてクリエイティブな作業だろう」と。

女親の場合、子育ては文字通り「プロデュース」で、自分の中から生産する行為なのだけれど、男親は、当初は自分の中から生み出されたという感覚には乏しい。あるベテランの産科医が「父性は社会的につくられる」と言っていた。おっかなびっくり子育てをするうちに、子どもの中に自分に似た部分や異なる部分を見て、愛おしくて面白くて仕方なくなるのだという。さらに子どもが娘だったりすると、娘が可愛くてメロメロになる父親が多数出現し、とあるファミリー向けのSUVの広告や子持ち男性をターゲットにした雑誌の文句にもよくあるように「うちのお姫さま(自分はエスコートする従者)」「娘にモテたい」といった感覚へと進行するようだ。

そうそう、病院関係者の話によると、長く闘病していた人はずっと我慢していた好物を口にした後に、どこか「これでもういい」と満足したかのように他界することが多いのだそうだ。それと同じなのか、高齢の男性がこと切れるのは「自分の娘」の顔を見た後であることも多いという(高齢女性の場合は、息子に限らず自分の子どもや家族なのだそうだ)。残された家族はそんな様子を見て「もう、どんだけ娘のことが好きやねん!」と泣き笑いで突っ込むしかない。

とはいえ、「パパと娘」「ママと息子」のスイートな補完関係に浸るのを許してもらえるのは、子どもが小さいうちだけ。やがて相応に成長した彼らは振り向くこともせず、時に少々辛辣な言葉を残して、飛び立ってゆく。飛び立たなきゃ困るし、親は子が飛び立つようにしなきゃいけない(できない人も時々いる。それは双方にとって問題だ)。だから大人は子どもが飛び去っていくと、そっとバスタオルならずタオルケット一枚分、嬉しくって寂しい、甘酸っぱい涙を流して愛しい子どもの成長を噛みしめるのだ。……ほら、それはやっぱり、密かな恋に似ているじゃないか。

河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。