清濁合わせ飲むことのできる大人なら、この言葉選びの端々ににじむ、作者や編集者の皮肉なユーモア、そして意欲的な制作姿勢にニヤリとするのではないだろうか。しかし世間の受け取り方は当然さまざまで、特に現代の表現活動ではセンシティブとされるジェンダー問題を扱っていることからSNSで炎上し、東村さんから編集部へ「しばらく時間をかけて内容を吟味し、発表できるかたちになってから再開したい」との申し出があり、休載が決定したという。「本作は実際の出来事を元に描いていこうと考えていたので、皆様からの反響に向き合わずに創作を続けることはできないと判断しました」と東村さんはツイートしている。

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東村アキコさんのTwitterは、『ヒモザイル』の休載を告げる10月21日のツイート以降、更新が止まっている。

ヒモザイルのどこがアウトだったのか? SNS上では「盛大な『余計なお世話』だ」「人権配慮がされていない」「作品中で馬鹿にされた(ダメ出しされた)アシスタント男性がもし自分の肉親だとしたら、その肉親が公然と上司によって一挙手一投足を馬鹿にされるのを気持ちよく見ることはできない」などの指摘があった。

批判のほとんどは、東村さんの視線を「傲慢」「上から目線」「人を馬鹿にしている」とする反感だった。……でも、そうだろうか? それだけの漫画だろうか? そこはギャグ漫画、エンタメとしてあえての演出であることは、当のアシスタントだって制作の裏方側にいるのだから、十分に含んだ上での「出演」のはずである。

論点は非常に面白かったし、そこを評価して連載を楽しみにし、応援していた人たちも多かった。休載決定の知らせに、むしろ「せっかく面白いことが始まると思っていたのに……」と落胆したあまたの人々がいたのは、アイデアへの共感や期待、評価がどれほど大きかったかの裏返しでもある。

この「下方婚実験」は、鳴り物入りで「女性活躍推進」の大号令がかけられる現代日本だからこそ、行われるべきものだったからだ。作品中でセレブなママ友が「社会性や清潔感に欠け、偏った夢を追いかけるワープア」であるアシスタントたちの姿を目にして「うちの子(息子)が(将来)あんな風になったらどうしよう……」と口にする容赦ない真実味。稼げるアラサー女子会で、女性たちが結婚なんてと言いながら「家事・育児ができる夫なら結婚してもいい」と言い放つことの意味など、女性の傲慢(ごうまん)な物言いをあえてクローズアップするそこには、何かの力学の逆転が起きつつある現代日本社会の一部が切り取られている。

批判の中には「主夫をヒモ呼ばわりするジェンダー観が古すぎ。専業主婦を寄生虫って言うのと同じじゃん」という指摘もあったようだ。もちろん、ヒモという露骨な言葉はあえて読者の心をざらつかせ、作品を記憶に残すために、その言葉のインパクトから戦略的に使われていると私は推測するけれど、これこそ、まさに作者が今の時代の人々に気づかせたかったジェンダー観ではなかろうか。そう、「主夫をヒモと呼ぶのは専業主婦を寄生虫と呼ぶのと同じ」レベルの粗野なのだ。その無神経さをあらわにすることで煽られる、誰かの(あるいは自分の)感情を覗き込むと、見えてくるものがある。