SNSで炎上した結果第2話で休載することになった、東村アキコさんの漫画『ヒモザイル』。賛否両論飛び交ったこの作品は、本当に「上から目線」で「人を馬鹿にしている」ものだったのだろうか? 作品が本当に描こうとしていたテーマとは……。
最近、講談社の漫画誌『月刊モーニング・ツー』で開始したばかりの新連載『ヒモザイル』という漫画作品が、SNSでの炎上をきっかけとして休載に追い込まれた事案をご存知だろうか。
そう、ヒモザイルの「ヒモ」とは、女性の収入を当てにして取り入り、自分は働くということをせずに女性の稼ぎで自堕落に暮らす男性を称する「ヒモ」のこと。作者の東村アキコさんが、イケておらず社会性に欠ける自分のアシスタントたちの将来を心配し、彼らや加入希望者を「ヒモザイル」なる軍団へ組織して女性受けのする立派なヒモへと育成。彼氏もつくれないほど忙しく仕事に邁進(まいしん)する、アラサーのバリキャリ女性とカップリングしようという「実録ヒモ男養成漫画」だったのだが、第2回をもって休載となった。
作者である漫画家、東村アキコさんは、少女漫画雑誌で『きせかえユカちゃん』をスタート以降、『ママはテンパリスト』『主に泣いてます』『海月姫』などドラマ・映画化もされたヒット作を次々と世に送り出す、大人気漫画家である。さらに『東京タラレバ娘』では、アラサー女性を中心に「グサグサ来る」と共感する読者が続出。大きな話題を呼んでいる。ある意味、今、日本で最もホットな人気マンガ家の一人と言える。
『ヒモザイル』も、連載開始直後から「さすがの東村先生がまた面白いことを始めた」「斬新。現代を感じる」「天才か」「八方にケンカ売ってる感じが良い」「これは楽しみ」と、読者からの期待に満ちた絶賛を受け取っていた。
第1話が公開された当初から、勘の鋭い人は、作品から皮肉な実験精神を読み取り、これが社会学で呼ぶところの「下方婚」実験であることを見抜いていた。2015年の日本において、女性が自分よりも社会的に「劣位」の男性と結婚する下方婚は、果たして「特殊な個人例」でなく、社会的所属グループ間で組織的に成立するのか。講談社モーニング誌面に掲載された、ヒモザイル加入希望者の募集広告はこんな調子である。
《日本のダメ男たちをサルベージして、立派なヒモザイルへと育てあげる。稼ぎが良く結婚していない女性とヒモザイルを愛と絆で結びつけるのを最終目標とする非常に公共性の高い事業です。
★社会に貢献したくてウズウズしている!
★新しいことに挑戦したい!
★ヒモとして成長し、グローバルに活躍したい!
★ぶっちゃけ漫画に出たい!
さあ、あなたのダメ男力で世界を変革してみませんか?》
さらに、作品中のセリフもこんな感じだ。
《要するに!
オーナー:家のことは男にまかせて仕事に邁進して毎月しっかりお給料を稼ぐ
ヒモザイル卒業生:働く女性を支えるために精神面・肉体面・家事育児すべてをサポートする代わりに日々の生活費をすべて女性に出してもらう→バイトから解放された時間を使って自分の夢に向かって家で何かやる》
《金ない仕事ない モテないダサい 彼女いない でも夢はある(ここ重要)そういうクソメンを東村プロに集めて「ヒモザイル」を結成し世の中にあふれてる お金はあるけど彼氏がいない 働く女子のもとに送り込むための訓練をほどこし「ヒモザイル」に育てあげる》
《そういえばオレ就活ん時「ヒモになれたら就職なんてしなくていいのに」って毎日思ってました》
《だろ? 今の時代ヒモってのは別に悪いことでも何でもない
働く女性が増えた今 社会学的にも今の日本のシステムにきっちりハマるはずだ!!》
清濁合わせ飲むことのできる大人なら、この言葉選びの端々ににじむ、作者や編集者の皮肉なユーモア、そして意欲的な制作姿勢にニヤリとするのではないだろうか。しかし世間の受け取り方は当然さまざまで、特に現代の表現活動ではセンシティブとされるジェンダー問題を扱っていることからSNSで炎上し、東村さんから編集部へ「しばらく時間をかけて内容を吟味し、発表できるかたちになってから再開したい」との申し出があり、休載が決定したという。「本作は実際の出来事を元に描いていこうと考えていたので、皆様からの反響に向き合わずに創作を続けることはできないと判断しました」と東村さんはツイートしている。
ヒモザイルのどこがアウトだったのか? SNS上では「盛大な『余計なお世話』だ」「人権配慮がされていない」「作品中で馬鹿にされた(ダメ出しされた)アシスタント男性がもし自分の肉親だとしたら、その肉親が公然と上司によって一挙手一投足を馬鹿にされるのを気持ちよく見ることはできない」などの指摘があった。
批判のほとんどは、東村さんの視線を「傲慢」「上から目線」「人を馬鹿にしている」とする反感だった。……でも、そうだろうか? それだけの漫画だろうか? そこはギャグ漫画、エンタメとしてあえての演出であることは、当のアシスタントだって制作の裏方側にいるのだから、十分に含んだ上での「出演」のはずである。
論点は非常に面白かったし、そこを評価して連載を楽しみにし、応援していた人たちも多かった。休載決定の知らせに、むしろ「せっかく面白いことが始まると思っていたのに……」と落胆したあまたの人々がいたのは、アイデアへの共感や期待、評価がどれほど大きかったかの裏返しでもある。
この「下方婚実験」は、鳴り物入りで「女性活躍推進」の大号令がかけられる現代日本だからこそ、行われるべきものだったからだ。作品中でセレブなママ友が「社会性や清潔感に欠け、偏った夢を追いかけるワープア」であるアシスタントたちの姿を目にして「うちの子(息子)が(将来)あんな風になったらどうしよう……」と口にする容赦ない真実味。稼げるアラサー女子会で、女性たちが結婚なんてと言いながら「家事・育児ができる夫なら結婚してもいい」と言い放つことの意味など、女性の傲慢(ごうまん)な物言いをあえてクローズアップするそこには、何かの力学の逆転が起きつつある現代日本社会の一部が切り取られている。
批判の中には「主夫をヒモ呼ばわりするジェンダー観が古すぎ。専業主婦を寄生虫って言うのと同じじゃん」という指摘もあったようだ。もちろん、ヒモという露骨な言葉はあえて読者の心をざらつかせ、作品を記憶に残すために、その言葉のインパクトから戦略的に使われていると私は推測するけれど、これこそ、まさに作者が今の時代の人々に気づかせたかったジェンダー観ではなかろうか。そう、「主夫をヒモと呼ぶのは専業主婦を寄生虫と呼ぶのと同じ」レベルの粗野なのだ。その無神経さをあらわにすることで煽られる、誰かの(あるいは自分の)感情を覗き込むと、見えてくるものがある。
女子SPA!の記事「東村アキコ『ヒモザイル』休載に見る“炎上気にしすぎ”時代」(http://joshi-spa.jp/381892)で、少女漫画コンシェルジュの和久井香菜子さんはこう語る。「少女マンガには(略)男性に教育されて女性が磨かれていくという話は、ごまんとあります。それを男女逆転させて、『女に好かれる男になれ』とやった『ヒモザイル』は、男性のプライドを傷つけたのかも」、と。
「教育されて磨かれる」シチュエーションは、性別が逆であれば、過去の時代には連綿と、それこそ少女漫画にでもおとぎ話にでもいくらでもあった。そのゴールの多くは「世間的に幸せな結婚」であり、これはよく考えると夫の収入を当てにした「永久就職」だったわけだ。これはまさに、女性からすると自分よりも社会的所属が上の男性を上手に射止める「玉の輿」、つまり(女性から見て)“上方婚”がこれまでの物語として求められていたということ。女性から見て上方婚、逆に男性から見ると下方婚が、社会的に「是」だったということである。
さて、女性にとって選択肢の増えた現代、女性の“下方婚”は特定の条件下において社会的是となるか? デフォルト化できるか? 『ヒモザイル』とは、まさにその社会実験だったのだ。
あの作品が突きつけたのは「ダイバーシティ(多様性)の行き先って、つまりこうですよね」ということ。現代社会ではグローバルに欠かせない、高尚で高邁な概念として扱われる「みんなの大好きなダイバーシティ」が、高尚でも高邁でもない精神で実際に巷(ちまた)に普及していったらどうなるか。そのさまを描こうとする漫画だった。そして普及とは、言い換えれば卑近化すること、下世話になることでもある。
稼ぐ男性が仕事に邁進するために専業主婦が家事育児を引き受ける構図があったように、稼ぐ女性が仕事に邁進するために専業主夫が家事育児を引き受ける構図がある。まだまだ数が少ないために、専業主夫はメディアでは特別な美談として扱われがちだが、人間はいろいろで当たり前。美談じゃない専業主夫が大っぴらに出てきて初めて、本当にその構図が普及した、広まったと言える。多様性のある社会では、さまざまなニーズや価値観、人生が尊重される。家庭を持たずにプロフェッショナルとして活躍する女性や男性の生き方が尊重されるように、専業主婦/主夫も選択肢の一つとして当然尊重されるべきで、どちらかを否定して他方を推進しようとするような二項対立的な方法論は、いい加減に陳腐化している。
また、アラサー女性が「家事・育児ができる夫なら結婚してもいい」と言い放つことの意味も重要だ。仕事がデキる人の多くが、仕事へのコミットメントが真剣になればなるほど、仕事量が増え、拘束時間が長くなり、男であろうが女であろうが家庭に割ける時間は当然減る。ワーキングマザーの間では、ワークライフバランスの天秤の重さに耐えかねて「私にも専業主婦がいればいいのに」「嫁が欲しい」と自嘲的に皮肉を言うのはよく見かける光景である。「優れている」ことと「稼ぐ」こと、そして「職場に拘束される」ことが同義にならざるを得ないような就労スタイルが一般的な現代日本社会では、男も女も誰もが自分のために家事育児をしてくれる「専業主フ」の役割を他の誰かに求めるという、社会挙げての盛大な皮肉が待ち受けている。ワークライフバランスの議論で就労スタイルの見直しが叫ばれる理由である。
本当に「多様性のある社会」の下には、どんなモーレツ「社畜」も、テキトーな従業員も、主夫も主婦も、それぞれが選択した道であれば尊重され、幸せであっていい。そういう、お互いの尊重と合意が前提となった社会学的実験の行く末を、私は見たかった。単に皮肉で面白おかしければいいというのではない、きちんと計算された含意表現が笑いとともにビシバシと弾ける、東村アキコさんならではの『ヒモザイル』がいつか再開するのを、ファンとして首を長くして待っている。
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。