実家ではなく男の家に直行する

千代が凄いのは真逆のことを考えたところだ。すぐに発って男に会い、これからどう生きていけばいいのか、よく話し合おう。そう思った瞬間に、荷物をまとめた。社長の夫人と国語の教師には、母が急病だと嘘をついた。京城に来て、まだ半年とたっていなかった。

夜行列車と連絡船を乗り継いで、下関に着いた。金物店に寄ったのは、このときである。包丁を帯に挟んだ千代は、山陽線で岩国に着いた。川西の実家へは向かわない。駅からそのまま、男が千代とのいざこざの後に転任した村への道に出た。行ったことはないが、川に沿ってどこまでも歩けば、六里(約24キロ)か七里(約28キロ)先にその村はあるはずだった。

「この道をどこまでも行きさえしたら、佐伯に会える。そう思うと、私の足は軽かった。」

その夜のことは、千代の自伝に詳しい。ただし評伝は、彼女の記述を信じるほかに真相を確かめる術はないと記している。

村に着くと、小学校の小使い(いまの用務員)が、男の住む寺の離れまで案内してくれた。障子に灯がついている。千代は縁側に駆け寄り、名乗った。障子が開いた。

「ああた、どうして、どうしてお戻りんされたのじゃ。」

竹の格子窓から見える庭
写真=iStock.com/Wako Megumi
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「あ、短刀じゃな」

男が気にしたのは人目だった。ここへ来る道で、誰かに会わなかったか。学校の小使いに会っただけだと千代が答えると、男は声を上げた。

「小使いにお会いんされたら、もう不可ん。明日は村中に、ああたの話が拡がる。」

男は庭へ飛び下り、千代を力いっぱい突き飛ばした。もう一度突き飛ばされた弾みに、帯の間の包丁が紙包みから抜け、草むらに落ちる。おぼろな月明かりに、それが光った。

「あ、短刀じゃな」

男は包丁を拾い上げた。こんなもので脅すつもりか。そう言って、遠くの竹藪へ投げつけた。

母への土産だと話しても、信じてはもらえまい。そう思った瞬間、千代は自分自身を疑った。

「ひょっとしたらこの庖丁は、母への土産物なぞではなく、あの下関の店で買った瞬間に、いま、男の口から聞いたように、男を脅す積もりで、それで、こんな、誰の眼にもつき易い、帯の間なぞに挟んで来たのではなかったか。」

男は「いまからなら、朝までには実家に帰れる」と言い残して部屋へ駆け上がり、雨戸をぴしゃりと閉めた。